第8章 救済の行列③
セラフィナが一歩を踏み出すと、人の波が引き潮のように引いていく。
熱狂していた空気はセラフィナの登場と共に霧散した。
石の周囲を、白い法衣の聖職者たちと、騎士団、貴族の従者たちが取り巻いている。
そしてさらにその外側を、人、人、人。
王都の民だ。王城の門戸は開かれ、今日だけは誰でもこのパレードを見ることが出来る。
道の両脇だけではない。
窓辺にも、屋根の縁にも、広場の奥にも、人がいる。
どこを見ても、見られていた。
セラフィナは無意識に息を止める。
「前をご覧ください」
低く言われ、はっとする。
レオニスだった。
声は穏やかだが、どこか命令に近い。
「下を向かないで」
「……見ない方が、楽かと思ったのだけれど」
「見ない方が、足元を取られます」
そう言って、彼は半歩だけ前へ出る。
ちょうどセラフィナの斜め前に、盾のように。
その位置が、ありがたかった。
出立の直前、白耀石を載せた輿が整えられ、従者たちが最後の確認に走り回る中で、セラフィナは王家の前へ進み出た。
こうして家族全員が揃うのを見るのは、数か月に一度の茶会以来だった。
城から離れると言うのに、空気はあのときと変わらない。冷たく、よそよそしく、きちんと距離があった。
父王が最初に口を開く。
「おまえはヴェイルマール王家の末姫だ。軽々しい振る舞いは許さん」
その声音は硬く、公の場で臣下へ命を下す時と変わらない。
セラフィナは伏し目がちに答えた。
「……はい」
「民衆の前で取り乱すな。祈りを受ける立場であることを忘れるな」
いつも通りの言葉だった。
人ではなく、王家の一部として整えていくような言い方。やはり変わらないのだと、そう思いかけた時だった。
父王は一拍だけ置き、低く言った。
「──必ず、生きて戻れ」
セラフィナは顔を上げた。
けれど父はもうこちらを見ていなかった。
聞き間違いかと思った。あの声が、王としてではなく、父として落ちたように聞こえたのは。
まるで今の一言など口にしていないかのように、視線を脇へ流している。
次に口を開いたのはユリウスだった。
「旧都の状況は聞いているだろう。王都とは違う」
兄の声もまた冷静で、感情を押し殺していた。
「余計なことは考えなくていい。おまえは、おまえに課された役目だけを果たせ」
いつもと同じだった。
突き放すようで、命令だけを置いていく声音。
それなのに、最後だけが違った。
「無茶はするな」
命令の形をしているのに、その奥に、命令では包みきれないものがある。そう気づいた途端、指先の震えが止まらなくなった。
ユリウスはそこで言葉を切ると、今度はレオニスへ顔を向けた。
「ローゼンフェルト」
「は」
「……わかっているな?」
レオニスの声は短かった。
「承知しております」
「ならば、決して見誤るな」
そのやり取りの意味は、セラフィナにはわからなかった。
けれど、何かが引っかかった。それが何を意味するのか、わからないまま前を向いた。
母は最後まで何も言わなかった。姉は不機嫌そうに顔を歪めているように見えた。
家族全員の顔一人ずつにゆっくりと視線を送ると、セラフィナは頭を深く下げた。
セラフィナが下がる時、かすかに母の指先が動いた気がした。セラフィナに向かって。触れたいものを、触れられずにとどめたような、ほんのわずかな動きだ。言葉一つくれないというのに、そんな風に都合よく考えてしまうなんて、まだ期待してしまうなんて、滑稽だと思いながらセラフィナは家族の前を辞した。
行列はゆっくり動き出した。
先頭には教会の旗。
その後ろに聖職者。
白耀石を載せた架台。
そしてその傍らに、セラフィナ。
なるほど、と思う。
“見るべきもの”として並べるなら、こうなるのだ。
王都の人々は石と姫を同じ視線で見ている。
奇跡と、呪いを。
最初に耳へ届いたのは、祈りの声だった。
「どうか旧都を、我々をお救いください」
「白耀石の奇跡を」
「どうか、どうか──」
切実な願い。
その声に、セラフィナの胸は痛んだ。
もし本当に、自分が役に立てるなら。
そう思った次の瞬間、別の声が混じる。
「呪い姫だ」
小さいが、はっきり聞こえた。
「近づくな」
「瘴気を連れてくるぞ」
「何故、穢れを外へ出す」
囁きはすぐに別の囁きを呼ぶ。
祈りと悪意は、思ったより近い場所に並んでいた。
セラフィナは顔を上げたまま歩く。
下を向かないと決めたのは、自分自身だった。
民のために、王族として為すべきことを為す。そう決めたのだ。
そのとき、視界の端で何かが動いた。
黒い。
空の下を這っていた瘴気の筋が、まるで匂いを嗅ぎつけた生き物のように、ひときわ濃くこちらへ傾いてくる。
一筋ではない。
いくつもだ。
人々のざわめきが変わる。
「見ろ……」
誰かが息を呑む音。
次いで、ざわり、と波のような動揺が広がった。
瘴気が、目に見えてセラフィナの方へ寄ってきていた。
(いや、やめて、来ないで)
今まで瘴気を呼び集めているのは自分かもしれないと思っていた。けれど、その正解を知るのはなによりも恐ろしい。
瘴気は白耀石のある架台だけではない。
その傍らを歩く自分の方へ、黒い流れの先端が吸い寄せられるように細まり、向きを変えている。
まるで、生きているみたいだとセラフィナは思った。
飢えた生き物が餌を見つけたときのように、瘴気はセラフィナを囲むように渦を巻く。
けれど、不思議とその身に触れることはなかった。
「やはりだ」
貴族の一人が低く言う。
「姫を置いておけば、王都へなお集まっていた」
「姫に居住まいを移していただいた方が良いのでは?」
「いや、均衡には両方が要る」
その声は評議会の延長のようで、なのに今はひどく現実味があった。
民の間にも恐れが走る。
「ほら、やっぱり……!」
「姫が呼んでいる」
「穢れが寄っていく」
「危険だ、子どもを下げろ!」
ざわめきが一気に荒くなる。
押し戻される人波。
祈っていた者たちまで、一歩引く。
その変化が、身体より先に心へ刺さった。
やっぱり。
やっぱり自分が。
そう思った瞬間、胸の奥で何かがきつく締まる。
息が浅くなる。
喉がひどく乾く。
魚が、胸元で激しく尾を打った。
「姫」
レオニスの声が、すぐ近くで響く。
見ると、彼はもう完全にセラフィナの前へ出ていた。
背中が視界を塞ぐ。
剣の柄には手をかけていない。
抜けば余計に混乱するとわかっているのだろう。
代わりに、人の流れと視線の矢面へ、自分の身体を立てている。
「前へ進みます」
「でも」
「止まる方が危険です」
短い。
そして正しい。
セラフィナは息を整えようとする。
うまくいかない。
それでも、レオニスの背中が前にあるだけで、完全には崩れずに済んでいた。
「大丈夫です」
彼が言う。
何が大丈夫なのか、わからない。
瘴気は寄ってくる。
人々は恐れている。
自分のせいで、と思う気持ちは消えない。
それでも、その声だけは疑いたくなかった。
行列は続く。
白耀石の架台が軋み、聖職者の祈りが続き、王都の民は半ば逃げるように道を開ける。
その間を、セラフィナはレオニスの背中を見ながら歩いた。
石畳の一枚一枚が、やけに遠い。
足元は頼りなく、胸は苦しく、視界は少し霞んでいる。
けれど、倒れてはいけないと思った。
ここで倒れれば、ますます“使えぬもの”になる。
旧都へ向かう話も、自分のせいで混乱したと受け取られるかもしれない。
だから、歩く。
一歩。
また一歩。
白く美しい馬車まで歩くだけなのに、その距離はとてつもなく長く感じる。
やがて王城の門が近づく。
高い石門の向こうには、あれほど憧れた王都の道が伸びている。
更にその先に旧都がある。
病と汚れた水と黒い霧に閉ざされた場所が。
馬車に乗り込む直前、セラフィナは一度だけ振り返った。
王都の空は重い。
塔は変わらずそこに存在し、白耀石のないその頂は、どこか空っぽに見えた。
その下には出立を見送りにきた父と母と、兄と姉の姿が遠くに見える。
あそこに戻れるのかどうかも、今はわからない。
その瞬間、不意に咳が込み上げる。
堪えようとしたが間に合わず、肩が小さく揺れた。
レオニスがすぐに振り返る。
「姫」
「……平気」
「平気ではありません」
「今は、ダメ」
かすれた声でそう言うと、レオニスは眉を寄せた。
だがそれ以上は何も言わない。
言わないまま、位置だけをさらに近づける。
人と瘴気の両方から庇うように。
馬車に共に乗り込むと、ようやく大きく咳こむことが出来る。その背をレオニスの手がゆっくりと撫でてくれる。
王城の門が背後で閉じる音がした。
地割れにも似た重い音だった。
何かを送り出すというより、切り離すような音。
セラフィナは前を向く。
振り返らないと決めた。決めたのに、背中だけがまだあちらを向いている気がした。
旧都へ向かう道はまだ長い。
その先で何を見るのか、どこまで自分が保つのか、何一つわからない。
ただ一つ確かなのは、王都の人々の前で、瘴気が自分へ寄るのを皆が見たということだった。
もう後戻りはできない。
そしてその事実だけが、黒い流れよりも重く、胸の内へ沈んでいた。




