第8章 救済の行列①
出立の朝、王都はひどく静かだった。
静かというより、息を潜めている、という方が近いのかもしれない。
隠し切れない熱気と期待と好奇心と信仰と、すべてがないまぜになって、まだ見えない塔の外に膨らんでいる。
そんな気配だけが、白耀の塔の上にまで届いていた。
セラフィナはひどく早く目が覚めた。
まだ空は白みきらず、部屋の中は普段より静かだった。
人の気配はある。侍女たちも騎士たちも、下では絶えず何かを動かしているのだろう。
けれど、その慌ただしさは壁を隔てた向こうに押し込められ、部屋の中には妙に乾いた静けさだけが残っていた。
眠れなかったわけではない。
それでも胸の内側では、魚がひどく落ち着きなく泳いでいて、まるで自分だけがまだ旅立ちを知らされていないみたいに、しきりに場所を変えている。
部屋の窓から見える城下には、すでに人の列が伸びていた。
道の脇、門の外、王城へ続く広場の隅々まで、小さな点のように人がいる。
遠すぎて顔までは見えない。
けれど、それが皆こちらを見に来ているのだということだけは、嫌になるほどわかった。
白耀石は既に塔から降ろされていた。
それだけでも、王城全体が揺らぐような大仕事だったらしい。
足場を組み、城の見事な中庭には大きな櫓がいくつも立てられ、薔薇園まで無残に荒らされたと聞いている。
昨夜のうちから塔の周囲には人の出入りが絶えず、石を納めるための白木の架台や、護送のための車列、儀礼用の幕、封鎖用の柵までが次々と運び込まれていた。
侍女たちはそのたびに落ち着かない顔で走り回り、塔の中まで木屑と縄の匂いが運ばれてきた。
白耀石が見えるのは、上階の見晴らし台へ上ったときだけだ。
あれほど大きく、いつも塔の上にあったものが、今はもうそこにない。
そう思うだけで胸がざわついて、セラフィナはじっとしていられなくなった。
手袋をし、外套を肩に掛け、そっと部屋を出る。
上階へ続く螺旋階段の前まで来たところで、背後から声が落ちた。
「姫君」
振り返ると、レオニスが立っていた。
黒い護衛装束の上にまだ外套を羽織っていない。
支度の途中なのだろうに、まるで最初からここへ来るとわかっていたような顔だった。
「どちらへ」
「少しだけ、上へ」
レオニスの視線が階段へ向く。
それだけで、セラフィナは少しだけ言い訳じみた気持ちになる。
「見ておきたかったの。なくなったあとを」
短く沈黙が落ちた。
レオニスは止めなかった。
ただ、当然のように一歩脇へ寄る。
「ご一緒します」
「ひとりで大丈夫よ」
「大丈夫かどうかは私が判断します」
「あら、わたしよりわたしに詳しいみたいね」
「いつも見ておりますので」
いつもと同じようなやりとりは驚くほど平和で、少しだけ可笑しくて、セラフィナは笑う。
そうしている間にも、魚は胸元で落ち着きなく尾を打っていた。
二人で階段を上る。
最初にこの階段を上らされた時よりも慣れた身体は楽に階段を上がれるようになっていた。
けれど今朝は、数段ごとに妙に息が浅くなる。咳が出る。
その度にレオニスの手がそっとセラフィナの背を撫でた。
旅支度の緊張のせいだと、自分に言い聞かせる。
途中で一度だけ足を止めると、レオニスがすぐ後ろで立ち止まった。
「疲れましたか」
「まだ平気よ」
咳込みながらも強がって見せる。
「運びましょうか」
「物みたいに言わないで」
レオニスなら本当に抱き上げてこの階段をのぼりかねない。でもセラフィナは自分の足で上りたかった。
他愛もない、短い言葉のたびに、今日はいつもより気を張っているのがわかる。
ようやく尖塔へ辿り着く。
風が強かった。
以前ここへ来た時と同じように頬を撫でる風なのに、今日は冷たさが違う。
空も広い。けれど、その広さの中にぽっかりと穴が空いたようだった。
白耀石のあった場所には、台座だけが残っている。
長く巨大な重みを支えていた石の座は、白く、無言で、思った以上に生々しい。
そこにあるはずのものがないというだけで、ひどく裸のように見えた。
「……空っぽ」
思わず、そう零した。
レオニスは何も言わない。
その沈黙が、かえって同意のように思える。
セラフィナは台座を見つめたまま言う。
「ずっと、ここにあったのに」
「ええ」
「なくなると、こんなふうになるのね」
「そうですね」
短い返事。
けれど今朝のレオニスは、その短さの奥に、いつもより言葉を飲み込んでいる気配があった。
「貴方まで付き合わせてしまってごめんなさい」
旅が決まってから言いそびれていた言葉をやっと口に出来た。
「あなたの護衛騎士ですので、どこまでも」
レオニスがそう言ってくれる言葉がどこまで本当なのかセラフィナにはわからない。でも、淡々としたその言葉に、不思議なくらい胸の奥があたたかくなった。
慰めるための言葉かもしれない。職務として口にしているだけかもしれない。
それでも今のセラフィナには、その「どこまでも」が、ひどくやさしく響いた。
セラフィナは伏せていた目をそっと上げる。
レオニスはいつものように大げさな表情など見せず、ただそこに立っていた。
けれど逃げるような気配も、嫌々従っているような陰りもない。
そのことだけで、少しだけ息がしやすくなる。
「……遠くまで、行くのよね」
思わずそう返すと、レオニスはわずかに目を細めた。
「遠いかどうかは、行ってみなければわかりません」
あまりにも彼らしい、そっけない答えだった。
なのにセラフィナは、ほんの少しだけ笑いそうになる。
こんな朝に笑うなどおかしいのに、張りつめていた心がほんのわずかに緩んだ。
「あなたの音は」
セラフィナは風に吹かれながら訊く。
「今もしているの?」
レオニスは手首の石へ一瞬だけ目を落とした。
「ええ」
「白耀石は関係ないのね」
「……はい、そのようです」
その答えに、セラフィナは目を伏せる。
やはり石だけではないのだ。
何がどう繋がっているのかはわからない。
けれど、塔の上から石が消えてもなお続くものがある。
胸元で魚が強く跳ねた。
まるでその会話を聞いているみたいで、セラフィナはそっとそこへ手を当てる。
「落ち着かないわ」
「魚がですか」
「ええ。今朝からずっと」
レオニスの目がわずかに細くなる。
「今日はいつもより速い気がするの」
「……そうですか」
その一言だけなのに、彼の中で何かが強く張ったのがわかった。
少し沈黙が落ちる。
眼下では、王都の広場に人が集まり始めていた。
ここからでは小さくしか見えないのに、その熱だけは塔の上まで届いてくるようだった。
セラフィナは風の中で小さく言う。
「本当はね、怖いの」
それは、旧都のことだったのか。
人前に出ることだったのか。
それとも、自分が本当に何なのかを見せつけられることだったのか。
自分でも、うまく言葉にできない。
弱音を吐くこと自体慣れていないせいで、まるで独白のようになってしまった。王族らしくないとはわかっていても、今だけなら許されるような気がして。
レオニスはすぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、ようやく言う。
「怖くて当然です」
その返答が予想外で、セラフィナは顔を上げた。
慰めるでもなく、否定するでもなく、ただそう言われる。
それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
「それでも、行かれるのですね」
まっすぐそう問われると、泣きたくなるほど胸が詰まった。
「……ええ」
「役に立てるなら、とお思いですか」
「そうでなければ、行く意味がないもの」
レオニスの喉が、かすかに動く。
「意味なら、あります」
「どんな?」
問うと、彼は視線を逸らした。
灰色の瞳が、台座の空白を一度見て、それから遠い空へ逃げる。
「……まだ、うまく言えません」
それは答えになっていない。
けれど、答えたくないのではなく、言葉にできないのだとわかった。
セラフィナは少しだけ笑った。
「ずるいわ」
「自覚はあります」
「では、帰ってきたら聞かせて」
その言葉に、レオニスの視線が戻る。
帰ってきたら。
何でもない約束のように言ったその一言が、ひどく重く二人の間へ落ちた気がした。
帰ってこられるのかしら。
セラフィナは言葉にせずにじくじくと痛む胸の内で呟く。
レオニスはすぐには答えなかった。
やがて、低く短く言う。
「……はい」
その“はい”が、妙に静かで、妙に強く胸に残る。
塔の上を吹き抜ける風が、二人の衣を揺らした。
白耀石のない台座はなお空っぽで、その空虚さだけが朝の光を受けている。
けれどセラフィナは、完全に空っぽではないのだと思った。
なくなったものは確かに大きい。
それでも、その空白を見下ろしながら自分の隣に立っている人がいる。
そのことが、出立前の胸の冷えを、ほんの少しだけ和らげていた。




