表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

17/21

第7章 可決②

「……わたしは」


 声を出そうとして、喉が少し掠れた。

 数人の目がいっせいにこちらへ向く。縋るような期待に満ちた眼差しはまるで見えない手でセラフィナの首をゆっくりと締め上げているように感じる。

 心臓が小さく跳ねた。

 けれど言わなくてはと思った。

 旧都の人々が苦しんでいるなら、少しでも役に立つなら、自分はここで黙っているべきではない。


「わたしに、できることがあるのなら」


 ようやくそこまで言ったときだった。


「ありません」


 低い声が、室内の空気を切った。


 セラフィナは息を止める。


 壁際に控えていたはずのレオニスが、一歩前へ出ていた。

 視線はまっすぐ、評議の卓へ向いている。

 顔色は変わらない。

 それなのに、その一言だけで場の空気がぴんと張りつめた。


「……何を申す」

 誰かが低く言う。


 レオニスは礼を失しない程度に一礼し、それから言葉を続けた。


「姫君はご体調が万全ではありません」


 短い。

 説明も装飾もない。

 ただ事実だけを置いた声だった。


 セラフィナは思わず彼を見た。

 怒っている。

 今まででいちばんはっきり、そうわかる怒りだった。

 まっすぐで、隠し方を知らない。


 聖職者が眉をひそめる。


「騎士殿、評議の場です」

「承知しております」

「……辺境の田舎騎士風情が、王宮評議会で差し出口とはな」

「事実を申し上げているだけです」


 その声音は低く抑えられていた。

 少しざわめきが起こる。


「姫君はこのところ咳が続いておられます。食も細っている。長時間の移動に耐えられる保証はありません」


 そこまで言われて、セラフィナの頬が熱くなる。

 恥ずかしさとも、悔しさとも違う熱だった。

 そんなふうに、自分の状態を見ていてくれたのかという驚き。

 そして、それを人前で口にした彼の怒りのまっすぐさ。


「とはいえ、姫君だけを王都に残せば瘴気はなおこの都へ集まり続ける」

「石のみを巡らせて、穢れを引く器だけを王都へ置くなど本末転倒でしょう」


 王宮貴族の焦りを交えたその声にセラフィナの胸がひやりと冷えた。


「では……」


 セラフィナはかすれた声で言う。


「旧都の人たちが苦しんでいるのなら──」

「怖いのは」


 レオニスの強い声音がセラフィナの声に重なった。

 それは評議の場にふさわしくないほど、感情のこもった声だった。


 セラフィナは言葉を失う。

 レオニスも、言いかけて止まったように見えた。


 いつもなら絶対に表へ出さないものが、一瞬だけ堰を切って溢れたかのように。


 評議の間がしんと静まる。

 その沈黙の中で、レオニスはわずかに目を伏せ、次にはもういつもの低い声へ戻していた。


「……危惧すべきことが多すぎる、という意味です」


 言い直しだ。

 そうわかるほど、最初の一言は生々しかった。

 セラフィナの胸の奥が強く打つ。


 怖いのは──何なの。

 旧都のこと?

 巡回のこと?

 それとも。


 答えは続かなかった。

 けれど、あの一瞬の声だけで十分だった。

 自分の命を案じられたのかもしれない。

 そんな考えが、今まで一度もなかったわけではない。

 でも、こうして形になると、息が苦しくなるほど胸が熱い。


 兄がそこで口を開く。


「現状、姫を長距離移動へ伴うことは現実的ではない」


 冷静な声だった。

 だがわずかに早口で、内側の焦りを押し殺しているのがわかる。


「巡回そのものの是非と、姫の同行は分けて論ずるべきだ」


 その言葉に、教会側はすぐさま食い下がる。


「ですが均衡の要を欠いては意味がない」

「王都においてさえ、石と姫が同所にあることが前提なのです」

「旧都の民に、今さら慎重論だけを示すおつもりですか」


 慎重論。

 旧都を見捨てるのか。

 王都だけを守るのか。

 そう言いたいのだと、誰にでもわかる物言いだった。


 父は長く沈黙した。

 その沈黙の重さに、室内の誰もが息を潜める。

 やがて父は、低い声で告げた。


「……巡回浄化の準備を進める」


 その一言で、胸の奥がすうっと冷えた。

 可決されたのだと、すぐにわかった。胸の内が恐ろしいほど冷えているのに、不思議と涙は来なかった。泣くより先に、もう次のことを考えていた。そういう自分に、少しだけ驚く。


「ただし姫の同行については、最終判断を保留とする」


 保留。

 完全な拒絶ではない。

 けれど今この場で否を言い切れなかった以上、流れはもう決まったようなものだった。

 教会側の顔に、露骨ではない満足が走る。

 貴族たちもまた、安堵と打算の入り混じった顔をしている。


 旧都を見捨てなかった。

 そういう形だけは整ったのだ。

 セラフィナは膝の上で手を握る。


 傷ついた。

 怖かった。

 けれど同時に、胸の奥のどこかでは「これで誰かが助かるなら」と思ってしまっている自分がいた。

 そのことに、自分でぞっとする。

 もののように扱われているとわかっているのに。

 それでも役に立てるなら、と考えてしまう。


 体調は、なぜか日に日に悪くなっている。

 巡回に出て、自分の体力がもつかどうかもわからない。

 それでも誰かのためになるのなら──たとえ、その果てに命を落とすことになったとしても。


「本日はこれまでとする」


 父の言葉で、評議は終わった。セラフィナは沈み込んでいた思考から意識を戻すと、周囲をゆっくりと見渡した。

 人々が立ち上がり、ざわめきが戻る。

 そのざわめきの中で、レオニスだけがまだ動かなかった。

 セラフィナが立ち上がろうとしたとき、彼はすぐに近づいてくる。


「殿下」


 その声はもう抑えられていた。

 だが、さっき評議の場で零れかけた感情の名残が、まだどこかに残っている。


「歩けますか」


 少し考えてから答えた。


「……大丈夫」


 レオニスは何も言わなかった。ただ、支える手の位置をわずかに変えた。

 言いながら、セラフィナは自分でも何を求めているのかわからなかった。


 ただ、さっきの言いかけた言葉の続きが聞きたかったのかもしれない。

 怖いのは──何?


 回廊へ出ると、冷たい空気が少しだけ息を楽にした。

 けれど胸の奥の熱は消えない。


「レオニス」


 呼ぶと、彼は足を緩める。


「さっき、何を言おうとしたの」


 レオニスは少しだけ黙った。


「……失礼でした」

「そういうことではなくて」

「評議の場で感情を出すべきではありませんでした」

「そうでもなくて」


 セラフィナは彼を見上げる。謝ることで話を終わらせようとしているのだとわかった。それでも引き下がれなかった。


「わたしは、聞きたかったの」


 セラフィナが覗き込む灰色の瞳が、わずかに揺れる。

 だが彼は結局、低く言うだけだった。


「今は、お休みください」


 それは答えではない。

 逃げたのだと、セラフィナにもわかった。

 それでも不思議と腹は立たなかった。

 あの一瞬の声だけで、もう十分に伝わってしまっていたからかもしれない。


 レオニスは、自分の身に起こることを怖れているのかもしれない。

 そう思うだけで、信じられないほど胸が熱くなった。誰かに案じられることがこれ程嬉しいなんて思いもしなかった。


「……ありがとう」


 小さく言うと、レオニスはほんの一瞬だけ視線を伏せた。

 返事はない。

 けれど支える手が、ほんのわずかに強くなる。


 白耀の塔へ戻る道すがら、空はさらに暗くなっていた。

 黒い流れはなお濃く、遠くの雲は重く垂れ込めている。


 巡回浄化がはじまる。

 旧都へ向かう話も、もう止まらないだろう。


 そして自分の同行は“保留”のまま、次の決定を待つことになる。

 それなのに、セラフィナの胸にいちばん強く残っているのは、教会の言葉でも父の判断でもなかった。


 怖いのは──

 そう言いかけて、止まったレオニスの声だった。


 その続きを思うたび、胸の奥が熱くなる。

 苦しいのに、どこかでその熱に縋りたいと思ってしまう。

 白耀の塔が近づく。

 白く、静かで、いつも通り閉ざされた塔。

 けれど今日のセラフィナには、その閉ざされた場所の中に一つだけ、確かなものがあるように思えた。

 すべてが自分を“使うもの”として見ようとする中で、たった一人だけ、そうではない目を向けてくれる人がいる。

 そのことが、今はどうしようもなく大きかった。


 塔の扉が閉まる音がした。いつもと同じ音なのに、今日だけは少し違って聞こえた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ