第6章 王宮評議会③
自分でも大丈夫だと思っていた。
けれど寝台へ入っても、目は冴えたままだった。
夜の塔は静かだった。
静かすぎて、かえって息が詰まる。
外では風が鳴っているはずなのに、この部屋へ届く頃には、もう何もかもが遠くなってしまう。
セラフィナは薄く目を開けた。
天蓋の影が、暗がりの中でぼんやり揺れている。
眠れない。
それどころか、自分が今どこにいるのかさえ、急にわからなくなるような虚ろさがあった。
胸の奥が、ひどく空っぽだった。
悲しいのかと問われても、違う気がした。
苦しいのかと問われても、また違う。
ただ、自分の中身だけがどこかへ抜けてしまって、ここに横たわっている身体だけが、置き去りにされているようだった。
このまま朝まで、何もせずに横になっていることが、たまらなく耐えがたく思えた。
こんな夜は時間が過ぎるのが恐ろしいほどゆっくりになることを知っているからだ。
セラフィナはゆっくりと起き上がる。
侍女を呼ぶ気にはなれなかった。
誰かに見つかれば止められるだろうし、何より、この虚ろさを言葉にして説明できる気がしなかった。
夜着の上に薄い上掛けを羽織り、小さな手燭を取る。
夜だから、手袋はしていなかった。部屋を少し出るだけなら必要ない。誰にも会わないのだから。
扉を開けると、塔の中の冷えた空気が頬を撫でた。
石へ向かう階段は暗い。
だが、真っ暗ではない。手燭の小さな灯が足元を照らし、その明かりに誘われるように、セラフィナは一段ずつ上っていった。
最初にこの階段をまともに上ったのは、レオニスに促された時だ。
部屋に籠もってばかりいた自分へ、半ば命令のように歩けと言い、休みながらでも上るよう付き添ってくれた。苦しくて、足は重くて、それでも上りきった先で見た白耀石は、それまで遠く眺めるだけだったものとは違って見えた。
あの日から、この階段にはレオニスの気配が染みついている。
無理をさせるくせに、ちゃんと歩幅を合わせてくれたこと。息が乱れた時には黙って足を止めてくれたこと。
そういう些細なことばかりが、不意に胸へ返ってくる。
だからなのかもしれなかった。
評議会のあと、こんなにも空っぽになってしまったのに、足が向いたのがここだったのは。
白耀石のある見晴し台に辿り着くと、夜の石は昼間とはまるで違って見えた。
昼はただ白く、眩しく、信仰の対象としてそこにある。
けれど夜のそれは、冷えた月光を内側に沈めたように静かで、どこか人の手の届かないもののようだった。温かみのある石の光に触れると、やはり石は冷たく硬い。
セラフィナはしばらく立ったまま、それを見つめていた。
石は何も言わない。
昔からずっとそうだ。
自分がどれほどその下で息を潜めてきても、何を諦めてきても、この石はただ白くそこにあるだけだった。
それなのに、気がつけばここへ来てしまった。
どこにも行き場なんてなかった。
ここしか知らないのだ、と、ぼんやり思う。
白耀石の傍らに立つこと。
その光の届く場所で、自分が何者なのかわからなくなりながら、それでもそこにいること。
それがあまりに長すぎて、どこへ行けばいいのかわからなくなった時、帰る先が檻しかないのだと思うと、少し笑いたくなった。
けれど笑えなかった。
手燭の灯が小さく揺れる。
セラフィナはその場にしゃがみ込むように座った。冷たい石床が夜着越しに伝わってくる。
本当は冷えるはずなのに、それすら遠かった。
このまま朝までここにいたら、どうなるだろう。
侍女たちは青ざめるだろうか。
王妃は困るだろうか。
ユリウスは怒るだろうか。
レオニスは──
そこまで考えて、やめた。
考えたくなかった。
星を眺めながら、遠くに見える街の明かりがひとつ、ひとつと消えていくのをただぼんやり数えていた。
風は冷たく、吐く息は僅かに白む。
手袋をつけなれた指先はその寒さに赤く染まっていた。
それでも動きたくなくて、セラフィナは石に寄り掛かると背を預ける。
「……セラフィナ、様」
声が落ちてきたのは、その少しあとだった。
セラフィナははっと顔を上げる。
階段を駆け上る黒い影。名を呼ぶ声でレオニスだと気づいた。
白耀石の明かりが届く範囲にやってきたレオニスは、見慣れない様子だった。
いつものきっちりした装いではない。部屋着の上に急いで上着だけを羽織ったような姿で、髪も少し乱れている。セラフィナを探してきたのだと、一目でわかった。額にはうっすらと汗が滲んでいて、普段の彼からは想像しにくいほど、息も少しだけ乱れていた。
それでもその手には、きちんと手袋だけがはめられている。
その姿を見た瞬間、胸の奥の空洞に、熱いものが一気に流れ込んだ。
あぁ……
セラフィナは理由もなく泣きたくなった。
来てほしかった、と思う。
ずっとこんな風に、誰かに迎えに来て欲しかった。
セラフィナは息をするのも忘れた。
「……レオニス」
名を呼ぶと、彼はすぐには返事をしなかった。
ただ、そこにいるセラフィナを見たまま、一度だけ深く息を吐く。安堵と、怒りと、その両方を無理やり押し込めたような息だった。
やがて低く言う。
「何をしておられるのです」
静かな声だった。
けれど、いつもより少しだけ硬かった。
「……眠れなくて」
「それで、ここへ?」
「はい」
答えながら、自分でもずいぶん子どもじみた言い訳に聞こえると思った。
だが、それ以上どう説明すればいいのかわからなかった。
眠れない。
空っぽで、どこにいても自分がいないみたいだった。
なんだか呼吸がしにくいようなそんな感覚に、空を求めてただ階段を登ったのだと。
そんなことを言葉にしたら、本当に惨めになってしまう気がした。
レオニスはしばらく何も言わなかった。
怒るべきなのか逡巡しているのだろう。
侍女がセラフィナの不在に気づいた時には、塔の中はちょっとした騒ぎになっていたに違いない。こんな夜更けに、手袋もなく、夜着のままで、たった一人で白耀石のところまで来ているとはきっと誰も想像しなかったのだろう。
けれど彼は怒鳴らなかった。
怒れないのだと、セラフィナにはわかった。
ここへ来た理由を、何も聞かなくても聡い彼は察してしまったのかもしれない。
レオニスはセラフィナの側までは来ず、少し距離を置いたところで足を止めた。
「冷えます」
「……はい」
「お部屋へ戻りましょう」
その声が思ったよりずっとやさしくて、セラフィナは更に泣きたくなった。
評議会の間中、ずっと誰の前でも元気なふりをしていた。
ここでもそうしていられると思っていたのに、この人の前では、たったそれだけで崩れそうになる。
「ごめんなさい」
「謝らないでください」
「でも、心配を……」
「それはします」
短く言い切られて、セラフィナは目を瞬いた。
レオニスはようやく少しだけ近づいてくる。
近づいてきても、慎重に、決して無造作には寄らない。夜着で来ていることも、手袋をしていないことも、ちゃんと見ているのだとわかった。
「侍女たちが気づいて騒ぎになりました」
「……ごめんなさい」
「私も」
と、そこで彼は一度言葉を切った。
「探しました」
その「私も」の中にどれだけのものが入っているのか、セラフィナは考えないようにした。
考えてしまったら、たぶん、本当に泣いてしまう。
レオニスは手袋をした手を差し出す。
「立てますか」
セラフィナは、その手を見た。
この人はいつもそうだ。
触れられないことを前提にしながらも、まるで本当に支えられるように、自然に手を差し出す。
「……はい」
自分の素手を上げるのに、少しだけためらいがあった。
夜着で来たから、手袋はない。冷えた指先が、差し出された黒い手袋の上にそっと重なる。
レオニスはゆっくりと力を込め、セラフィナを立たせた。
強く引くことはしない。
けれど、揺れればすぐに支えられるように、手袋越しの手はしっかりとそこにあった。
立ち上がると、急に足元が頼りなくなった。
ずっと座っていたせいだけではない。自分が思っていた以上に、心も身体も空っぽだったのだと、その時になってわかった。
ふらついたのを感じたのだろう。
レオニスのもう片方の手が、夜着の上から肩口をそっと支える。
「ゆっくりで」
「……はい」
広間を出て、階段へ向かう。
一人で上る時とは違い、二人で下りる道筋はは妙に長く感じた。
手燭の灯はレオニスが受け取っていた。
その明かりが段差を照らし、その横で、手袋をした手はセラフィナの手を離さない。
その慎重さが、いっそ苦しいほどやさしかった。
階段の途中で、レオニスの手が一瞬だけ止まった。
気づいたのは、灯りのせいだった。
段差に差し込んだ手燭の光が、セラフィナの手首のあたりを照らした。素肌のまま出てきたその腕に、何かが動いた。薄い皮膚の下を、黒い影が尾を引くようにゆっくりと滑る。
「……今のは」
声は低く、短かった。
セラフィナは息を止めた。見られた、とわかった。
素早く袖を引き下ろそうとして、手袋のない指先がうまく動かない。
「……魚です」
観念したように、それだけ言った。
「魚?」
「痣です。魚の形の。生まれた時から、ここにいます」
指先が袖の上からそこを押さえる。今もゆっくりと動いているのが、自分にはわかった。
「動くのですか」
「……肌の上を泳ぐように。誰にも、見せたことはなかったのですが」
階段の途中で、二人とも足を止めていた。
手燭の灯りが揺れ、石壁に二つの影を映している。
レオニスはすぐには何も言わなかった。
怖がる顔を、セラフィナは待った。あるいは、距離を置かれることを。
「私の石が鳴るのは」
やがて落ちたのは、独り言のように低い声だった。
「そのためかもしれません」
セラフィナは顔を上げた。
「魚が水面で跳ねるような音、と以前申しました」
レオニスは自分の右手首を一度見る。
「今も鳴っています」
「……怖くはないのですか」
「何が」
「わたしの中にそういうものがいる……ということが」
問いかける声が僅かに震えてしまう。
レオニスは手を支えたままセラフィナより数段階段を降りると、まっすぐにセラフィナを見た。
「あなたを怖いと思ったことは、一度もありません」
短く、迷いのない声だった。
セラフィナの喉が、音もなく動く。
それが嘘でないことは、もうわかっていた。それでも、こうして言葉にされると、胸の奥のどこかが痛むように温かくなる。
「……呪いだと、ずっと思っていました」
「今も?」
「今は……正直、わかりません」
正直にそう答えると、レオニスはわずかに目を伏せた。
「それで構いません」
「え」
「今すぐわからなくていい」
その言い方に、急かすものは何もなかった。ただ、先があることを信じているような静けさだけがあった。
風が、石段の隙間から細く入り込む。
手燭の灯りが揺れた。
「セラフィナ様」
不意に呼ばれて、セラフィナは顔を上げる。
狭い踊り場に、手燭の灯が小さく揺れている。
レオニスは少しだけ視線を伏せ、それから言った。
「評議会のことを気にしておられるのなら」
「……」
「今日、あそこで言われたことがすべてではありません」
セラフィナは答えられなかった。
違うと言われたからといって、胸に刺さったものが消えるわけではない。
それでも、その言葉がひどくありがたかった。
レオニスは続ける。
「少なくとも、私にとっては違います」
「……何がですか」
「あなたが、石と一緒に置かれるべきものだということです」
その声音には怒りがあった。
静かな彼には珍しい、押し殺した怒りだった。
「あなたは、ここにおられる」
「……」
「だから、いなくならないでください」
セラフィナは足を止めた。
いなくなるつもりだったわけではない。
けれど、自分がいなくなっても誰も困らないと、心のどこかではまだ思っていたのかもしれない。
石は黙っている。
塔は何も言わない。
けれどこの人は、汗までかいて探しに来て、こうして低い声で言うのだ。
いなくならないでください、と。
その言葉が、胸の奥の空っぽだったところへ落ちる。
落ちて、じわじわと沁みていく。
一度に満たされるわけではない。それでも、さっきまでより少しだけ、息がしやすくなった。
「……ごめんなさい」
「謝らないでください」
「でも」
「次からは、せめて私を起こしてください」
その言い方があまりに真面目で、セラフィナは思わず少しだけ笑ってしまった。
「起こして、よいのですか」
「よくはありません」
「では」
「ですが、今夜のように勝手にいなくなられるよりはましです」
その返事がレオニスらしくて、セラフィナはまた少しだけ笑う。
笑えたことが、嬉しかった。
部屋の前まで戻ると、侍女たちが真っ青な顔で待っていた。
セラフィナの姿を見た瞬間、何人かは本気で泣きそうになり、すぐに頭を下げる。
「申し訳ありません、姫様」
「いえ……ごめんなさい。わたしが悪いのです」
「お身体は」
「大丈夫です」
そう答えると、レオニスが一歩引く気配がした。
部屋へ入る前、セラフィナは振り返る。
レオニスはまだそこにいた。
部屋着の上に急いで羽織っただけの姿のまま、手袋をした手に手燭を持って、いつものようにまっすぐ立っている。
けれどその乱れた髪と、まだ少しだけ乱れた息と、額の汗だけが、今夜どれだけ慌てていたのかを物語っていた。
あんなふうに探してきてくれたのだと思うと、胸の奥がきゅうと締まる。
嬉しいのに、少し苦しい。
苦しいのに、ひどくあたたかい。
「レオニス」
「はい」
「……ありがとうございました」
彼は一瞬だけ目を細め、それからごく短く答えた。
「おやすみなさいませ」
セラフィナは頷いて部屋へ入る。
寝台へ戻っても、すぐには眠れなかった。
けれど先ほどまでのような、底の抜けた空虚さは少しだけ薄れていた。
手袋のない自分の手を、そっと胸の上で握る。
あの人は、手袋越しにしか触れなかった。
それでも、ちゃんと連れ戻してくれた。
慎重に、壊れものみたいに扱いながら、それでも置いていかずに。
瞼を閉じる。
白耀石の冷たい光ではなく、階段の途中で揺れていた手燭の小さな灯と、汗をかいたまま探しに来た騎士の姿が、今夜は胸の奥に残っていた。
その灯を抱くようにして、セラフィナはようやく眠りへ落ちていった。




