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第6章 王宮評議会①

 評議会に出るよう言われたとき、最初に浮かんだのは驚きではなく、ようやく来た、という気持ちだった。


 旧都の名が塔の上まで届くようになって、もう数日になる。

 侍女たちの足音は朝から落ち着かず、窓の外の黒い流れは日に日に濃くなり、白耀の塔の中にまで王城全体の張りつめた気配が滲んでいた。


 このまま何も言われないはずがないと、どこかでずっとわかっていた。

 それでも、いざ王宮評議会への出席を告げられると、胸の奥が少しだけ冷えた。


 最近は長く座っているだけでも息が上がる。

 食事を取る量が減っただけでここまで体力が落ちるとは考えにくい。なにか、病気なのかもしれない。

 ここ数日咳も増えた。

 喉の奥は乾きやすく、朝起きるだけで身体が薄く熱を持っている気がする。

 けれど、そういうことは言わない方がいいとわかっていた。

 言えばきっと、「やはり弱っている」と判断される。


 役に立てるはずのものが、役に立たないと見なされるのは嫌だった。

 セラフィナがやっと王族として何かできるなら、体調の不良などどうでもよかった。


「大丈夫」

 鏡の前で、小さく自分に言い聞かせる。

 言葉にすると少しだけ楽になる。ならない日もある。今日はどちらかまだわからなかった。


 服装は襟の詰まった深い青のドレスが選ばれていた。

 鎖骨のあたりにいる魚が見えないように。


 色の薄い顔を少しでもましに見せるため、侍女が頬紅を慎重に乗せていく。

 指先は少し震えていたが、以前のように怯えというよりは緊張が原因のようだ。

 それもきっと、レオニスが塔へ来てから少しずつ変わったことの一つだ。


「苦しくはございませんか」


 鏡越しに、侍女が遠慮がちに尋ねる。その視線にはセラフィナの体調を慮る色が浮かんでいる。

 セラフィナは鏡の中の自分を見た。頬紅で誤魔化しても、やはり肌は白い。


「……平気よ」


 自分でもわかっていた。その言葉が答えになっていないことは。

 侍女は安心したような、けれど信じきれないような顔で小さく頭を下げた。


 大丈夫。平気。

 そんな言葉を口にするたび、ほんとうにそうなのか自分でも少しわからなくなる。


 扉が叩かれる。


「時間です」


 低い声が響いた。

 セラフィナは立ち上がる。


 今日は最初から、立ちくらみが来るのを覚悟していた。案の定、視界の端が少し白く揺れる。身体が、正直すぎる。

 けれどその瞬間にはもう、レオニスが近くにいた。

 黒い手袋の手が、ためらいなくセラフィナの肘の上を支える。


「歩けます」

「ええ」


 返事は短い。

 だがその“ええ”には、なんの信用ものっていない。


「大丈夫よ」

「そう見えるうちは、そのままで結構です」

「見えなくなったら?」


「抱き上げさせていただきます」


 セラフィナは思わず少し笑う。


「今日はずいぶん厳しいのね」

「いつも通りです」

「そうかしら」

「今日は、長いですから」


 その一言だけ、少し低かった。


 評議会が長くなることを見越しているのだろう。

 あるいは、それだけではない何かを警戒しているのかもしれない。

 耳鳴りのような、雨だれのような、魚が跳ねるような音。

 それがレオニスにだけ聞こえていることを思うと、自分の体調よりも、そちらの方が気がかりだった。

 音がする理由はわからない。

 わからないまま、彼がときどき険しい顔をするたび、胸の奥が小さく冷えた。魚が泳ぐ不快感は慣れても減るわけじゃない。きっとその水音もレオニスには不快だろう。

 横目で表情を窺うと、今日はその表情が少し違って見えた。

 不安というより、何かを決意したような顔だった。


 王宮評議会の間は、白耀の塔とは違う意味で冷たい場所だった。


 天井は高く、床は磨かれ、柱は白く、音はよく響く。

 それなのに広々としている感じはなく、むしろどこにも逃げ場がないように思える。

 視線が多いからだろうか。

 あるいは、ここでは言葉がいつも人を裁くために使われるからかもしれない。


 セラフィナの席は、父王や兄の席から少し離れた場所に用意されていた。同じ卓につくわけではないが、「ここにいる」と誰の目にもわかる距離だ。

 それだけで、妙に喉が渇いた。目の前に置かれた紅茶は湯気を立てているが、それを飲むのは憚られる。そんなひりついた空気だ。


 入室したとき、いくつもの視線が向いた。皮膚の上に重さがのる感覚があった。視線とはこういうものなのだと、塔の外へ出るたびに改めて知る。

 貴族たちの探るような目。

 書記の、見ぬふりをしながら見ている目。

 そして聖環教会の者たちの、静かで値踏みするような目。

 まるで化け物をみるような、見世物にされているような、目。


 レオニスは壁際へ下がっている。

 だが完全に遠くへ行ってしまうわけではなく、少し動けばすぐ届く位置に立つ。

 そのことに、思ったよりほっとする自分に少し驚く。


 評議は旧都の報告から始まった。

 封鎖の限界。患者の増加。死者の増加。井戸の汚染。施療院の不足。封鎖線を越えようとする住民の発生。

 一つ一つは整えられた言葉で読み上げられるのに、並べられるほどに旧都の崩れ方だけが鮮明になっていく。


 セラフィナは指先を膝の上で重ねた。

 布越しでも、手が冷たい。

 井戸水まで瘴気に侵されている。

 その一文を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。


 人は、水がなければ生きられない。

 それが穢れたのなら、旧都の人々は何を口にして生きているのだろう。

 視界の端で、黒い流れがよみがえる。

 塔へ向かってくる、あの濃い筋。

 あれが旧都から来ているのかもしれないと考えるだけで、呼吸が浅くなる。


「──もはや旧都のみの問題ではありますまい。瘴気溜まりは旧都以外にも点在しており、どこも瘴気の増加傾向がみられると報告があがっている」


 聖環教会の聖職者が、穏やかにそう言った。

 その声は静かで、整っていて、耳には心地よいくらいだった。

 だがセラフィナには、その整い方がかえって冷たく感じられる。


「封鎖を続けるだけでは遅い。必要なのは、恩恵の再配置です」


 再配置。

 物の置き場所を変えるような言い方だった。


「白耀石を、王都だけの奇跡として留めておくべきではない、ということです」


 白耀石。


 その名が出ると、室内の空気が少し変わる。

 王都の誰にとっても、あの石はただの国宝ではない。

 奇跡そのものに最も近いものだと信じられている。


 父が短く言う。


「石を動かせと申すのか」

「動かす、ではなく、巡らせるのです」


 聖職者は微笑んだ。


「必要な地へ恩恵を届ける。王都のみが救われてよい時ではありますまい」


 いくつかの席で、かすかな同意の気配が動く。


 セラフィナは目を伏せた。

 塔の上にある巨石を下ろすだけでも大変な作業であることは想像つく。しかしそれをやらなければならい程、今この国は追い詰められているのだ。


「だが、石だけを運んで足りるのか」


 誰かがそう口にした。

 その次に続いた言葉を、セラフィナはたぶん、ずっと忘れない。


「姫も、でしょう」


 ひどくさらりとした声音でそう告げられた。

 自分のことを言われたのだと理解するまで、一瞬遅れた。

 人を指し示すような響きではなかったからだ。


 遅れて理解が来ると、遅れた分だけ深く刺さる。

 反射的に顔を上げる。

 聖職者は微笑んだまま続ける。


「現に王都では、白耀石と姫君が同じ場所にあるからこそ均衡が保たれている」


 均衡。

 その言葉が、胸の奥にひどく静かに落ちる。


「姫君が瘴気を呼ぶから、石の近くにおく必要がある──そういう理解でよろしいか」


 別の貴族が、どこか試すように口にする。


「理解ではなく、事実です」


 聖職者は迷いなく答えた。


「あれが塔に籠められてから、王都周辺の流れは安定している。ならば危機にある地へも、同じ均衡を持ち込むのが理に適う」


 あれ。

 姫ではなく、あれ。


 名前でもなく、身分でもなく、ただ現象のように呼ばれる。

 そのことが、思ったより鋭く胸を刺した。

 セラフィナは、背筋を伸ばしたまま動かない。

 動けなかった、と言った方が正しいかもしれない。


「セラフィナを、か」


 兄の声が低く響く。

 静かなのに、怒っているとわかる声だった。


「民心のためにも必要でしょう」


 別の聖職者が言葉を継ぐ。


「白耀石だけでは足りません。見るべきものが要る。王族の、祈るべき姿が」


 見るべきもの。

 祈るべき姿。

 まるで祭壇の上へ置く飾りのようだと、セラフィナは思った。


 その瞬間、肺の奥がかすかに熱くなる。

 咳をしたくなった。

 だがここで咳き込めば、ますます“弱っているもの”として扱われる気がして、必死に息を止める。


「姫の体調は万全ではない」


 父がそう言った。

 一見すれば事実の指摘に過ぎない。

 だがセラフィナには、その一言が父にできる精一杯の抵抗のように思えた。


 それでも教会は退かない。


「ならばなおさら石の近くにあるべきでしょう。離しておく方が危うい」


 危うい。

 その言葉が妙に耳に残る。

 セラフィナは横目で、壁際に立つレオニスを見た。

 彼の表情はほとんど動いていない。

 けれど、手首のあたりに触れそうで触れない指先と、まっすぐすぎるほどまっすぐな視線が、いつもより硬い。


「姫君を民の前へお出しすることにも意味はあります」

「不安の中にある者たちには、示すべきものが必要なのです」

「石のそばにあるべきものとして、お姿を見せればよい」


 石のそばにあるべきもの。

 その言い方に、何かがすっと冷えた。


 役に立てるなら、と思った。

 旧都の人々が苦しんでいるのなら、少しでも助けになるなら、と。

 けれど今、目の前で語られているのは“自分が何をしたいか”ではない。

 “どう使うか”だけだ。


 それがわかってしまったから、余計に息が苦しい。


「……わたしが」


 気づけば、声が零れかけていた。

 役に立つなら、と。


 そう言いかけたのだと思う。


 だがその瞬間、壁際から強い視線が刺さった。

 レオニスだった。

 声は出さない。

 動きもしない。

 それでも、止められたのだとはっきりわかる目だった。

 そこにあったのは、冷たさではない。

 怒りだ。

 珍しいほど、はっきりした怒りだった。


 セラフィナは言葉を飲み込む。

 なぜ止められたのか、理屈ではわからない。

 けれど、あの場にいる誰より、レオニスのその目だけが、自分を“もの”として見ていないと、なぜかそう思えた。

 そのことに、胸の奥が小さく震える。


「姫君ご自身にも、国を救う御心はおありでしょう」


 聖職者が柔らかく微笑み、そう言った。

 柔らかいのに、逃げ場のない言い方だった。


 問われれば、否とは言いにくい。

 旧都を見捨てるのか、と、そのまま突きつけられる。

 セラフィナは膝の上で手を重ねる。

 冷えていた指先が、今は逆に熱い。


「……わたしは」


 喉が痛んだ。

 息を吸った途端、肺の奥がきしみ、咳が込み上げる。

 それでも堪えようとして、胸の内側がひりつく。


 次の瞬間、咳がこぼれた。

 ひとつ。

 そしてもうひとつ。


 静まり返った評議の場で、それは思った以上に大きく響いた。

 誰かが息を呑む。

 王妃の指先が、膝の上でわずかに強ばる。

 兄が立ち上がりかける気配がして、すぐに止まる。

 セラフィナは口元を押さえ、俯いた。

 視界が揺れる。

 喉の奥が焼けるように熱い。


「セラフィナ様」


 今度は、壁際からではなく、すぐ近くでレオニスの声がした。

 いつ動いたのかわからなかった。

 気づいたときにはもう、彼はセラフィナのそばに来ていた。

 無礼にならぬぎりぎりの距離で立ち、黒い手袋の手が、卓上へ水杯をそっと置く。


「少し下がられた方がよろしいかと」


 その声は低く抑えられていた。

 だが抑えていてなお、怒りが底にあった。

 誰に向けた怒りなのか、考えるまでもない。


 聖職者が何か言いかけた。


「しかし──」


 そのとき、レオニスが初めて相手を見た。

 声は荒げない。

 礼も失していない。

 それでも、その一言だけで空気が変わった。


「姫君はお疲れです」


 短い。

 だがそれ以上の言葉を許さない響きだった。

 セラフィナは思わず息を呑む。

 こんなふうに、誰かが自分のために怒るのを、見たことがなかった。

 誰も、家族でさえ、こんなふうに怒りを露わにしてくれたことはなかった。

 レオニスの怒りは、ひどくまっすぐだった。

 そのことに、少しだけ、ほんの少しだけ縋りたくなる。


 父が低く命じた。


「セラフィナを下がらせよ」


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