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第5章 封鎖旧都の報②

 

 侍女が薬湯を持って入ってくる。

 薄い香草の匂いが、部屋の空気をかすかに変えた。

 セラフィナの前へ置かれた椀からは、湯気が細く立っている。


「薬師より、喉に良いものをと」

「ありがとう」


 侍女は一礼し、早々に下がっていった。

 セラフィナは椀を見つめる。

 これも最近増えたものの一つだ。

 薬湯も、温かい布も、食事の匙加減も、以前より少しだけ気を配られている。

 たぶん、レオニスがいるからだ。

 彼が何かを大仰に変えたわけではない。

 ただ、“そうするのが当然だ”という顔で立っているだけなのに、周囲の空気が少しずつそれに引かれていく。


「冷める前に」


 レオニスの声に促され、セラフィナは椀へ手を伸ばした。

 けれど指先が思ったより震えていた。

 椀の縁に爪が小さく当たり、かすかな音を立てる。


 その瞬間、レオニスがすぐに椀を支えた。

 黒い手袋越しの指先が、陶器の片側を押さえる。


「……ごめんなさい」

「謝らなくて結構です」


 彼が手を添えているうちに、セラフィナは少しずつ薬湯を飲んだ。

 喉にじんわりとした熱が落ちていく。

 それなのに、胸の奥の寒さはまだ残っていた。


「……まずくはないわ」

「それは何よりです」

「もっと褒めてくれてもいいのに」

「飲めたことをですか」

「ええ」

「子供ではありませんので」


 褒めてほしかったわけではないのに、褒めてもらえないとわかった途端に少し笑えた。この人との会話はいつもそうだ。淡々とした返事に、セラフィナは椀を持ったままぎこちなく笑う。


「あなた、本当にやさしくないわね」

「よく言われます」


 またそれなの、と今度は少しちゃんと笑えた。

 その笑い声が小さく部屋に落ちる。


 だが次の瞬間、レオニスの表情が変わった。

 ほんのわずか。

 それでも、もうセラフィナにはわかる。

 あの音が近づいたときの顔だ。


「……またしているの?」

 レオニスは否定しなかった。

「少し」

「わたしの近くで?」

「多分」


 “たぶん”。

 その答えが返ってくるたび、胸のどこかがひやりとする。

 けれど以前より、怖さだけではなくなっていた。


「ねえ」


 セラフィナは椀を持ったまま、そっと首を傾げる。


「その音、どんなふうに聞こえるの」


 レオニスは少しだけ考え込んだ。


「水です」

「水?」

「雨だれのような」


 そこで一度言葉を切る。


 それなら空に近いこの塔でもよく耳にすることができる。


「……魚が、水面で跳ねたようにも聞こえます」


 セラフィナは思わず自分の鎖骨のあたりへ視線を落とした。

 服の下、見えない場所で魚はたしかに今日も泳いでいる。


「そんなに、はっきり?」

「はい」

「気味が悪いわね」


 そう言ってみたものの、ほんとうは少し違っていた。

 気味が悪いというより、奇妙だった。

 聞こえないはずのものを、彼だけが聞いている。

 しかも、それが自分の中の魚とどこか重なる。


 知らないものに輪郭を与えられたようで、落ち着かない。

 レオニスは窓辺へ目を向けたまま、低く言った。


「旧都の件で、南翼が騒がしくなっています」


 話題を変えたのだと、すぐにわかった。


「教会の人たち?」

「はい」

「何を言っているの」


 そこで彼は、今度はやや長く沈黙した。

 答えるかどうか迷っているらしい。

 珍しいことだった。

 その沈黙に少し不安を覚えてしまう。


「レオニス?」

「……石を、王都だけに留めておくべきではないと」

「白耀石を?」

「はい」

「そんなこと、できるの」

「動かすのではなく、王国内を巡らせるつもりのようです」


 巡らせる。


 その言葉が妙に嫌だった。

 祝福か何かのように聞こえるくせに、底に冷たいものがある。


「旧都へ持っていくの?」

「その可能性があります」


 セラフィナは椀を両手で包んだまま、じっとその熱を感じた。


 瘴気を浄化する白耀石を動かす。

 それが何を意味するのかはわからない。

 けれど城の空気がこれほど張りつめている以上、簡単な話ではないのだろう。


「……王都の人たちは、怖いのね」

「はい」

「旧都が、こちらへ来るのが?」

「それだけではありません」

「では何が」


 レオニスはすぐには答えなかった。

 その代わりに、遠くの塔の上──白耀石のある方角へ目を向ける。


「均衡が崩れることを恐れています」


 均衡。

 その言葉は、セラフィナの胸の奥にひどく静かに沈んだ。

 自分は、何のためにここにいるのか。

 白耀石の真下で、瘴気の流れを見上げながら、何を保たされているのか。

 考えたくないのに、その問いはときどき喉元まで浮かんでくる。


「……もし、旧都が本当に限界なら」


 小さく呟く。


「わたしに何かできることは、あるのかしら」


 その言葉に、レオニスが振り向いた。

 灰色の瞳が、まっすぐこちらを捉える。


「今はありません」


 あまりに即答で、セラフィナは少し目を瞬いた。


「きっぱり言うのね」

「はい」

「慰める気もないの?」

「必要なら言います」

「今は必要ではないと?」

「今は、余計なことを考えるべきではありません」


 ひどい、と言おうとして、結局できなかった。

 彼の声が少しだけ硬かったからだ。

 不機嫌というより、焦っているように聞こえた。


「……そう」

「まずは休んでください」

「命令?」

「お願いです」


 セラフィナはそれを聞いて、今度こそほんの少し目を丸くした。


 お願い。

 この人が、そんな言葉を使うこともあるのだ。


「それなら、少しは聞く気になるわ」

「結構です」


 また真顔のまま返されてしまい、セラフィナは息をつく。


 けれど心のどこかで、少しだけ救われてもいた。

 椀の底に残った薬湯を飲み切り、窓の外をもう一度見る。


 黒い流れはまだ途切れない。

 空は重く、遠くの雲の色はなお暗い。

 旧都の報は、恐らくこれからもっと増える。

 王城はさらに慌ただしくなるだろう。

 そしてその波は、きっと白耀の塔の上まで届く。


 セラフィナは目を閉じた。

 疲れている。

 けれど眠ろうとすれば、きっとまた黒い流れが脳裏に浮かぶ。


「少しだけ、休みます」


 そう言うと、レオニスは短く頷いた。


「その方がいい」


 彼の声が、いつもよりわずかに低かった。

 あの音がまだ鳴っているのかもしれない。


 セラフィナは長椅子にもたれ、瞼を閉じる。その上にレオニスがひざ掛けをかけてくれた。口ぶりとは違って、やさしい人だと思う。

 その間にも、白耀の塔の外では黒い流れがうねり、王城の下では旧都の報が行き交い、見えないところで何かが少しずつ動き始めている。

 そしてレオニスは、窓辺に立ったまま動かなかった。

 目を閉じていても、その気配だけはわかる。

 ただ見張っているのではない。

 何かを測るように、考えるように、じっとそこにいる。

 セラフィナは薄く息を吐いた。


 旧都。

 白耀石。

 耳の奥に落ちるという、聞こえない水音。


 わからないことばかりだ。

 それでも、何かが近づいてきている。

 そんな予感だけは、曇った空の色のように、はっきりと胸に残っていた。


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