第5章 封鎖旧都の報①
旧都の名が、白耀の塔にまで届くようになったのは、ここ数日のことだった。
もともと城の中でも、この塔の上は風通しの良い場所ではない。
運ばれてくるのは、整えられた報告と、必要最低限の指示だけ。
けれどどれほど口をつぐませても、緊張というものは足音や目配せの端に滲む。人と接することの少ない暮らしをしてきたせいか、そうした小さな機微には、セラフィナは昔から敏かった。
今日も朝から、侍女たちの動きはどこか硬かった。
盆を運ぶ手がやや速く、カップを置く音が少しだけ高い。
囁くつもりで潜められた声は、かえって落ち着きのなさを際立たせる。
その一つ一つが、塔の空気を落ち着かなく震わせていた。
人の不安は音に出る。それを読むことだけは、長い塔の暮らしの中で自然に覚えた。覚えたくて覚えたわけではないのに。
セラフィナは窓辺の長椅子に座り、本を開いたまま視線だけを外へ向ける。
遠くの空は鈍く曇っている。
その下を、見慣れた黒い流れがうねるように這っていた。
瘴気だ。
王都へ向かい、白耀の塔へ集まってくる、目に見える穢れの流れ。
晴れた日には細く、曇る日には濃くなる。
けれど今日は、ただ濃いだけではなかった。
幾筋もの黒が、まるで争うように塔へ絡みついてくる。
川というより、飢えた生き物の群れに近い。
見ているだけで胸の奥が重くなり、呼吸が浅くなるほどだった。目を逸らしたかった。でも逸らせば、見ていない間に何かが近づいてくる気がして、結局いつも見てしまう。
侍女たちの顔が暗く沈んでいるのはこれも原因の一つだろう。
「……今日は、ひどいわね」
思わず漏らすと、部屋の隅に立っていたレオニスが顔を上げた。
「何がですか」
「流れが。いつもより、ずっと」
レオニスは窓辺へ近づき、セラフィナの視線の先を追った。
それだけのことなのに、ひどく静かな人だとあらためて思う。
歩く音も、呼吸の気配も、必要以上に空気を乱さない。
「旧都からの報が増えています」
答えた声は低く、いつも通り無駄がない。
「……やっぱり、旧都が」
「封鎖が長引いているようです」
ようです、という言い方に、セラフィナは目を伏せた。
塔へ上がってくる話は、いつも薄められている。
本当はもっと酷いのだろう。
「病が広がっていると聞きました」
「はい」
「ただの風邪や熱ではないのね」
「違います」
レオニスは短く答え、それから少しだけ間を置いた。
「最初は咳と発熱だけだったようですが、今は吐き気と痙攣が出る者もいると」
セラフィナの指先が本の端を強く押さえる。聞いているだけで指先が震えてしまいそうだ。
「そんなに……」
「井戸水まで瘴気に侵されているという話もあります」
その一言は、病の話より重く響いた。
飲み水。
人が最後まで手放せないもの。
それが穢れたなら、旧都はもう都市として死にかけているのと同じだ。
「水まで……」
喉がひどく乾く。
セラフィナは唇を舐めた。
けれど乾きは消えなかった。むしろ言葉を聞いたせいで、喉の奥がざらついた気さえする。
「施療院も足りず、教会が抱え込んでいる患者も増えているそうです」
「抱え込んで?」
「封鎖を解けば流れ出るからでしょう」
淡々とした言い方だった。
「瘴気を感染症と信じている者もおりますので」
だがその静かさの奥に、レオニスの感情がわずかに硬くなっているのがわかる。
旧都。
黒い霧。
病。
汚れた水。
逃げ場のない人々。
想像してしまっただけで、胸の奥が詰まった。
──もし、もっと瘴気が増えたら。
──もし、白耀石だけでは足りなくなったら。
その先を考えようとした瞬間、喉の奥がひどく軋んだ。
小さく咳き込む。
すぐに収まると思ったのに、二度、三度と続き、肺の奥がじくじくと熱を持った。
閉じていた本を取り落としそうになり、指先に力を入れる。
「セラフィナ様」
レオニスの声が、先ほどよりはっきり近づく。
「なんでも、ないわ」
そう言おうとして、最後の音が掠れた。
自分でも驚くほど、喉がひどく乾いている。二の腕にいた魚が、胸元へ向かってゆっくり泳いでくるのがわかった。
いつもなら気になるその不快さにも、今は構っていられない。
視界の端が少し揺れる。
咳をしただけなのに、頭の奥まで熱が駆け上がるようだった。
レオニスは何も言わず、卓上の水差しから杯へ水を注いだ。
それをセラフィナの手の届く位置へ置く。
渡すのではなく、置くところが彼らしい。
「ありがとう」
杯を持とうとして、指先が思うように動かない。
見かねたのか、レオニスが位置を少しだけ手前へ寄せた。
セラフィナはようやく水を口に含む。
冷たさが喉を通っていくのに、渇きはあまり癒えなかった。
「熱はありますか」
「ないと思うわ」
「思う、では困ります」
少しだけ責めるような口調だった。
セラフィナは苦笑しようとして、また咳がこぼれる。
「あなた、最近わたしに厳しいわね」
「最近ではありません」
「そうかしら」
「以前からです」
真顔で言われて、少しだけ可笑しくなる。
だが笑うと胸が引きつり、うまく続かなかった。
レオニスの目が細くなる。
あの淡い灰色の瞳は、冷たく見えるくせに、ときどき妙に人を見透かす。
誤魔化しがきかない。
「食事も減っています」
「ちゃんと食べているわ」
そう言い返しながらも、実際、この数日はあまり食が進んでいない。階段を上るようになって徐々に健康になってきていたのに、急速に身体から力が抜けていくような気がするのだ。
「量が減っています」
「侍女にまで聞いているの」
「聞かなくてもわかります」
言い切られて、セラフィナは口を噤んだ。
旧都の報が届くたび、窓の外の黒い流れを見るたび、胃の奥に冷たいものが溜まるようで、何も喉を通っていかない。
けれどそれを認めたくはなかった。
認めれば、自分がまた“役に立たない存在”になってしまう気がする。
「……レオニス」
「はい」
「旧都は、本当にそんなに悪いの?」
問うた瞬間、彼がほんのわずかに沈黙した。
答え方を選んでいるのだとわかる沈黙だった。
「報告では、死者も出始めていると」
セラフィナの手が止まる。
「報告では、なのね」
「実際は、もっと悪いかもしれません」
その言葉に、窓の外の黒い流れがいっそう濃く見えた。
王都へ集まる瘴気は、ただ自然に集まってきているのではないのかもしれない。
どこかが崩れ、どこかが溢れ、その果てにここへ押し寄せてきている。
「……ごめんなさい」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
レオニスがわずかに眉を寄せる。
「何に対してですか」
「旧都のこと。王都のこと。みんながこんなに慌ただしいのに、わたしはここで座っていることしか出来ない」
「あなたが謝る理由はありません」
「でも……わたしのところへ瘴気が集まるのでしょう?」
震える声でそこまで言ってから、しまったと思う。声にしてしまうと、本当のことのように重さを持つ。ずっと胸の中だけに置いておけばよかった。はじめて口にしたその言葉は思っていた以上にセラフィナの胸をついた。
あまりにも、そのままの言葉だった。
いつも何度も胸に去来しては打ち消していた、そんな言葉をついに口にしてしまった。言葉にすることでまるで真実のように感じてしまう。
一瞬室内の空気が凍りついたようだ。
レオニスはすぐには返さなかった。
ただ、手首の石へ一瞬だけ指先をやる。
また、あの音がしているのだろうか。
セラフィナには聞こえない。
聞こえないものに、彼だけがときどき気を取られている。
「集まっているように見えるだけです」
ようやく返ってきた答えは、ひどく曖昧だった。
「見えるだけ?」
「……少なくとも、そう決めるには早い」
セラフィナは彼を見る。黒い髪から覗く灰色の瞳は、強くまっすぐセラフィナを縫い留めるような力を持っていた。
言葉は少ない。
でも、そこに込められた否定だけははっきり伝わる。その優しさになぜか少しだけ泣きたくなった。
「あなた、最近ずっとそう言うのね」
「何をですか」
「決めつけるな、って」
レオニスは一度だけ視線を逸らし、それから窓の外へ向けた。
「悪い方へ決める癖があるようなので」
「ひどい言われようだわ」
「違いますか」
違う、とすぐには言えなかった。
自分でよくわかっているからだ。
家族の沈黙も、侍女の怯えも、黒い流れも、すべて“自分のせい”と考えた方が筋が通る。
そう思えば、傷つくことにも慣れやすい。
けれど彼は、それを許さない。
そのことが、少しだけありがたくて、少しだけ苦しかった。




