第58話 その国を猫は既に知っている
落ちる。
音もなく。
ただ、
沈んでいく。
上下が曖昧になる。
空間が歪む。
横に、
本棚。
浮いている。
崩れた形。
本が宙に漂う。
開いたページ。
文字が流れる。
読めない。
その横。
時計。
いくつも。
大小。
壁もないのに、
掛かっている。
針が回る。
速い。
ありえない速さで。
カチ、カチ、カチ。
音が重なる。
時間が、
進んでいる。
進みすぎている。
アリスはそれを見る。
「……」
何も言わない。
ただ、
落ちる。
ふわり、と。
着地。
衝撃はない。
地面。
柔らかい。
でも、
土じゃない。
よく分からない感触。
アリスは顔を上げる。
その瞬間。
「遅刻する!遅刻する!」
声。
焦った声。
白うさぎ。
走っている。
必死に。
懐中時計を見ながら。
「急がなきゃ!」
そのまま、
アリスの横を通り過ぎる。
一瞬も止まらない。
アリスはそれを見る。
「……」
見覚えがある。
でも。
何かが違う。
チェシャ猫が肩で笑う。
「いつも愚かな白うさぎだね」
軽く。
アリスは言う。
「ねぇ」
視線は前のまま。
「ここってさ」
チェシャ猫が答える。
「不思議の国」
間。
「歪みが決壊して」
「帰ってこれるなんてね」
少しだけ、
楽しそうに。
アリスは小さく息を吐く。
「じゃあ、これで終わり?」
短く。
チェシャ猫は――
少しだけ、
黙る。
珍しく。
視線を巡らせる。
空気を測るように。
それから。
「……いや」
一拍。
「少し様子が違う」
声が低い。
「少し見て回ろう」
アリスが目を細める。
「……分かった」
一拍。
「とりあえず」
視線を前へ。
「白うさぎを追ってみる」
歩き出す。
森。
色がおかしい。
緑が濃すぎる。
影が、
歪んでいる。
進む。
しばらくして。
開けた場所。
そこに。
トランプ兵。
数体。
並んでいる。
赤。
白い薔薇。
一心に塗っている。
赤い塗料で。
無言で。
規則的に。
塗る。
塗る。
塗る。
一体が言う。
「白、誤り」
もう一体が続ける。
「赤、正解」
また塗る。
塗り続ける。
アリスはそれを見る。
「……何してるの」
小さく呟く。
トランプ兵は、
止まらない。
答えない。
ただ、
塗り続ける。
一体の手が、
わずかにズレる。
白が見える。
その瞬間。
別の兵が、
それを見る。
止まる。
一拍。
「誤り」
一言。
剣を抜く。
振るう。
塗っていた兵が、
崩れる。
紙のように裂ける。
倒れる。
音も軽い。
残った兵は、
何もなかったように
塗り続ける。
赤に。
正しく。
アリスはそれを見ている。
無表情。
「……そう」
小さく言う。
チェシャ猫が笑う。
「いいねぇ」
「ちゃあんと“不思議の国”だ」




