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4.勇者

〜フォートレス・ブラッド砦 中庭〜


「ここで将を斬っても戦況は変わらない。だが交渉の芽は潰れる。君の正義は、無駄な血を許すのか?」


沈黙が、戦場を覆った。

剣を持つレオンの手が、かすかに震えた。

怒りではない。

何かと戦っている震えだ。

やがて——レオンは、ゆっくりと剣を引いた。

兵が駆け寄り、ガルドを担ぎ上げる。

あと一瞬遅ければ、死んでいた。


「将軍を撤退させる」


ガルドは血を流しながら、かすかに呟いた。


「……魔王様……」


城内へ消えていく。


「魔王」


レオンが剣を構え直した。

引いたわけではない。向き直っただけだ。


「なぜ今、砦を捨てる」

「合理的判断だ。落ちる城に兵を残す意味はない」

「違う。時間を稼いでいる。何かを待っている」


こいつは勘がいい。本物の鋭さだ。


「好きに解釈しろ」

「だが聞け、勇者。俺はお前に停戦を提案する」


中庭が、静まり返った。


「……命乞いか、魔王」

「違う」


俺は答えた。


「戦争を終わらせる」

「どうやって?」


レオンが笑った。嘲りではない。試している笑いだ。

俺は答えた。


「君を勝たせる」


——その瞬間。

水晶の向こうで、リリアの息が止まった。


「——陛下、今」


「接続を維持しろ」


低く、静かに告げた。

リリアが、口を閉じた。

何も言わない。ただ——水晶を握る手が、白くなっていた。

戦場では、ミリアが小声でエレナに囁くのが聞こえた。


「……今、なんて」


エレナが答えない。唇を引き結んで、俺を見ている。

レオンの目が大きく見開かれ、聖剣を握る手がわずかに震えた。


「……魔王が、自ら俺に勝利を譲ると?」

「ああ」

「……ふざけるな」


レオンの声が低くなった。


「そんな馬鹿げた話があるか。絶対に罠だろう」


聖剣を握る手に力がこもる。


「お前のような存在が、命を差し出すだと?」

「俺の命を差し出す」


静かに繰り返した。


「ただし——戦争の停止と、正式な停戦協定が結ばれた後だ。

それまで俺は生きて交渉を続ける」

「お前が進軍を続ければ、いずれ我々は総力戦に持ち込む。

私を倒した後で指揮系統を失った獣の群れがどれだけの血を流すか——お前ならわかるはずだ」


レオンは答えない。


「だが俺が自ら敗北を宣言すれば、魔族は従う。戦争は『勇者の勝利』として終わる」

「……」

「これが俺の提案だ」


水晶の向こうで、リリアが震える息を吐いた。

声にならない何かが、口の端まで来ている。

それでも——黙っていた。

ボルグが低い声でぼやいた。


「……おい、今こいつ自分の命差し出すって言ったか」

「言った」

エレナが短く答えた。

その指先が、かすかに揺れている。

レオンがしばらく虚空を見つめていた。

聖剣を握る手は、まだ下りていない。


「……本気か。お前は」

「ああ」

「……条件が良すぎる」

「そうだ」


俺は否定しなかった。


「……なぜだ」


レオンの声が、少しだけ変わった。

怒りではない。

本気で、理解できないという声だ。


「理由は何だ。魔王が命を差し出す理由が——わからない」


俺は少し考え、適当な嘘をついた。


「戦争に飽きた」


中庭に、沈黙が落ちた。

ミリアが息を飲み、ボルグが舌打ちをした。

レオンはしばらく声のする方を見つめていた。

やがて——歯を食いしばる。


「……俺一人で決める話じゃない」


その声に、微かな迷いと覚悟が混ざっていた。


「王国に話は持ち帰る。だが」


聖剣が、再びこちらへ向く。


「交渉の場は中立地帯だ。魔族領では話せない。それはわかるな」

「従おう」

「勘違いするな、魔王。俺は剣を収めたわけじゃない」

「わかっている」


レオンは背を向け、歩き出した。


「賢い判断だ、勇者」


レオンの足が、一瞬だけ止まった。

振り返らず、そのまま戦場の向こうへ消えた。


ミリアとボルグが、後を追う。

エレナだけが——一瞬だけ立ち止まり、水晶越しにこちらを見た。

それから、歩き出した。


水晶の映像が、霧に戻る。

部屋が静まり返った。


リリアが、水晶を両手で抱えたまま動かない。

しばらく、何も言わなかった。

それから——堰を切ったように、顔を上げた。


「——陛下」


声が、微かに上擦っている。


「今のは、どういう」

「続ける」


俺は静かに答えた。


「レオンが持ち帰る。あとは——向こうが動く」

「そういうことを聞いているのではありません」


リリアの声が、珍しく強くなった。


「陛下は今——ご自身の命を、差し出すとおっしゃいました」

「ああ」

「……本気、ですか」


俺は少し間を置いた。


「心配するな、あとで説明する」


リリアが、唇を噛んだ。

それ以上は言わない。言えない、という顔だった。


「・・・ここの者たちはピュアだな。」

「え?」


フォートレス・ブラッドは陥落した。

ガルドは生きている。

勇者たちの進軍はしばらく止まる。


「レオンを説得するのは最後だ。今回話して分かったがあの男を動かすには、周りを全部変えるしかない」


止められない男を止める方法は、一つだ。

あの三人ではなく。

聖王国ごと、動かす。


「次は、もっと大きなテーブルを用意する」


戦場ではなく。

レオン・ヴァルハラ一人では、どうにもできない場所で。

国を賭けた、舞台を。



〜魔族帝国・影の玉座〜


玉座の間に戻ると、俺は深く腰を沈めて長い息を吐いた。

さっきまでの緊張が、ゆっくりと解けていく。

頭が落ち着くにつれて——別の何かが、じわじわと浮かんできた。


「……リリア。少し個人的な話をしてもいいか」

「はい。陛下のご命令とあらば」


(ご命令って話でもないんだが)


「俺は、甘いものが好きなんだ」

「……はい」

「プリンとか、チョコレートとか。口の中で溶けるような、ああいう繊細な甘さ。この世界に、そういうものはあるか?」


リリアは少し考えた。

少し、ではなく、かなり考えた。

首を傾けた。


「……なんですか、それ?」


その一言で、胸にぽっかりと穴が開いた気がした。


「……え?」

「プリン、チョコレート……申し訳ありません、陛下。

耳慣れぬ言葉です。

甘味料といえばネザービーの幻蜜か、ガジュロンの樹液とか……

『スイーツ』と呼ばれるものは、聞いたことがありません」


声が出なかった。

当たり前にそこにあると思っていたものが、この世界には存在しない。


「……そうか。ないのか」


声が、かすかに震えた。

転生したら最強の魔王だった。

その代償がスイーツなしとは、誰も教えてくれなかった。


「陛下……? パンはありますから、甘味をかけて召し上がってみては……」

「違うんだよ! スイーツは食感も大事なんだ!」


思わず大きな声が出た。

リリアが、かすかに目を丸くした。


(……魔王が玉座でスイーツの話をしている。我ながら何をやっているんだ)


俺は静かに首を振った。

外交官として二十年。どんな修羅場でも感情を押し殺してきた俺が。

スイーツがないだけで、こんなに動揺するとは。


「……いや、なんでもない。自分で作るしかないな」


立ち上がった。


「リリア。城下の市場へ行く。一緒に来てくれ。

お前の方がこの世界の素材に詳しいだろう?

俺がイメージを伝えるから、代用できそうなものを提案してくれ」


リリアは一瞬、珍しく驚いた顔をした。

それからすぐに頷いた。


「……承知いたしました」



————


〜魔族帝国・城下町 市場〜

黒いローブを一枚羽織っただけで、市場へ降り立った。

魔力の圧で市場がどよめく。商人たちが、震えながら頭を垂れる。

リリアが静かに手を上げて宥めると、波が引くように静まった。

市場を見回す。

肉。乾燥した穀物。香辛料。

確かに、甘い菓子の類は見当たらない。


「ふわっと膨らんで、甘くて、口どけのいいやつ。焼いた生地のスイーツが欲しい」


リリアは少し考え、露店を指差した。


「バジリスク卵はいかがでしょう。魔力を帯びた卵黄が濃厚で、加熱すると驚くほどふんわり膨らみます」

「いいな。十個」

「粉末で風味を深くするなら、ヴァルグレイン黒粉。焙煎穀物の粉で、香ばしさとコクが出ます」

「一袋もらおう」

「膨張剤なら、グリムバット膨張灰。魔力反応で生地を大きく膨らませます」

「それも適量」

「甘味料はネザービーの糖蜜が上質です。花のような香りと甘さが広がります」

「全部それで決まりだ」


商人たちは、魔王が素材を淡々と選ぶ姿を、息を潜めて見つめていた。


(俺の評判ってどうなってるんだろうな、この世界で)



————


〜魔族帝国・城 厨房〜


城へ戻り、厨房を占領した。

料理長が青ざめた顔で退室していくのを横目に、袖をまくる。

バジリスク卵を割る。

黄金の黄身が輝き、白身が魔力の膜を張って弾む。

ボウルにヴァルグレイン黒粉を加える。ネザービーの糖蜜を注ぎ、最後にグリムバット膨張灰を落とす。

生地が卵の魔力と反応して、静かにぷくりと膨らんだ。


「……いい感じだ」


黒い生地が渦を巻き、甘い香りと香ばしさが広がる。

鉄板に流し入れると、じゅわっと音が立つ。

表面が黒耀色に輝き、ふわりと膨らんでいく。

両面を丁寧に焼き上げる。

皿に盛り、ネザービーの糖蜜を細く垂らす。

仕上げにヴァルグレイン黒粉を一振り。


「できた」


リリアに皿を差し出した。


「食べてみろ。お前が選んでくれた素材で作った、俺の第一作だ」


リリアは恐る恐る一口。


「……!」


紅い瞳が見開かれ、頰が淡く染まる。


「この……ふわふわの食感。……陛下、これは……」


言葉を探している顔だ。


「……とても、美味しいです」


俺も一口、切り分けた。

——ふわり。

ケーキに近いが、違う。

ヴァルグレインの深い香ばしさ。ネザービーの幻想的な甘さ。バジリスク卵の野性味が、奥にほんのり残る。

前の世界のものとは違う。

だが——それがいい。

この世界でしか生まれない味だ。

二口目をゆっくり咀嚼する。

満足感が、静かに胸へ広がった。


「……悪くない。予想より、ずっといい」


リリアに視線を戻す。


「これがスイーツだ。第一号は、『バジリスク卵の黒耀ホットケーキ』にしよう。

今後も素材の提案を頼む。——もう少し洗練されれば、外交の場でギフトに使うのも悪くない」


リリアは珍しく、柔らかい笑みを浮かべた。


「光栄です、陛下。……私も、この味をもっと知りたいと思いました」


そういえばさっきから何度もおかわりに手を伸ばしている。


「……気に入ったか」

「……一切れだけ、もう一枚いただいても」

「好きにしろ」


魔王城に、甘い香りが漂った。

勇者は止まらない。帝国の問題は山積みだ。

それでも今夜だけは——まぁ、いいだろう。

次の一手は、明日考える。

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