2.戦えない魔王
情報が足りない。
彼女が何者で、この場所がどこで、「魔王」が何を意味するのか、俺には何もわからない。
前の体の記憶も、ない。
白紙だ。
「陛下……少し、お顔が違います。いつもと」
俺は静かに言った。
「俺は今頭が…おかしい。正直に言うと記憶がない。教えてくれないか。今ここで何が起きているのか、俺が誰なのか、何もわからない。一から教えてくれ」
女の目が、一瞬揺れた。
涙が滲んで泣きそうになっている。それでも崩れない。感情のコントロールが優秀だ。
俺は意識の隅でそれを記録しながら、彼女が口を開くのを静かに待った。
「……禁断魔法の、代償ですね」
「禁断魔法?」
「三日前、陛下が行方不明になりました。封印室が光ったと報告があり、確認に行くと……陛下は床に倒れていた。魔力はほぼ空の状態で」
彼女はじっと俺の目を見た。
「魂の代替召喚。先代が書き残した術です。術者の魂を代償に、望む才を持つ異界の魂を呼び込む」
一拍、置いた。
「……陛下は、自分の魂を差し出したのですね」
俺は黙っていた。
前の魔王は、異界から誰かを引っ張るために自分の魂を使った。
力を持ちながら、力では勝てないと悟って「特別な才能を持つ誰か」を呼んだ。
代償は、自分の魂、前の魔王の魂はこの体の中から消えたのだ。
(馬鹿な選択だ)
そう思いかけて——言葉が止まった。
馬鹿な選択、か。
俺は合理で生きてきた。感情を排して、損得を計算して、常に最適解を選んできた。
七年間、毎日隣にいた相棒を、最後まで読めなかった。
あなたの正しさは、冷たい——そう言われて、俺は死んだ。
前の魔王は違った。
勇者に勝てないと知りながら、諦めなかった。
世界を変えるために、自分ごと賭けた。その非合理な選択が——今、俺をここに立たせている。
(俺はその男に、呼ばれたんだ)
静かに、何かが腹の底に落ちてきた。
使命とか、覚悟とか、そういう大げさなものじゃない。
もっと単純なことだ——誰かが、全てを失って俺を呼んだ。
俺はその呼び声に、応えるかどうかを選べる立場にいる。
「君の名前は?」
「……申し遅れました」
彼女はわずかに目を細め、それから片膝をついた。
「リリア・ヴァルフレアム。魔族帝国の宰相を務めています。
吸血鬼族の長でもある。陛下とは——十年来の腐れ縁と、言えばわかるでしょうか」
「十年か」
十年。
美咲とは七年だった。それでも読み間違えた。
「ええ。あの駄々っ子が玉座に座った日から、ずっと傍で支えてきた」
彼女の声は揺れなかった。
だが「駄々っ子」という言葉に、かすかな温度があった。
——十年間、傍で支えてきた相手が、自分の魂を対価に使った。
彼女はそれを、今どう受け止めているのか。
怒りか悲しみか、俺にはまだわからない。だが——それを読もうとしている自分がいる。
まったく、人ってのは痛い思いをしないと学べない生き物だよな。
「魔王なんだろ。なんでそこまで追い込まれていた?」
「……勇者が現れました」
勇者。
コテコテすぎて、一瞬頭が真っ白になった。
「敵国は連合し、帝国領に攻め入っています。帝国内部でも反乱が起きています」
俺はリリアの話を聞きながら、頭の中で地図を作っていった。
リリアの説明を聞くに差し迫った問題がいくつかある。獣人連合の離反。吸血鬼の裏取引。ドワーフの離反。そして——三十万の聖王国軍と、先頭に立つ勇者レオン・ヴァルハラ。
「まとめると」
俺は言った。
「内部は三方向から崩れ、外からは勇者率いる軍が来ている。同盟もない。最悪だな」
「はい、陛下。その通りです」
リリアの声は平坦だった。
だが俺はその平坦さの奥に、ぎりぎりまで張り詰めた何かを感じた。
この女は今、崖の縁に立っている。
それでも膝をついて、俺を「陛下」と呼んでいる。
(なら、俺がやらなくてどうする)
「全員が、欲しいものを持っている」
ゆっくりと立ち上がった。
体が重い。魔力とやらが暴れている感覚がある。だが足腰は動く。
「獣人は名誉と領土。吸血鬼は安全な儲け。ドワーフは安定した取引先。欲しいものが分かれば、交渉は成立する」
立ち上がり、リリアを正面から見た。
「今の俺を——前の魔王じゃない、別の魂が入った俺を——信用できるか?」
彼女は目を逸らさなかった。
「……まだ、わかりません」
正直な答えだ。
「ただ、前の陛下は力で押さえつけるだけだった。あなたは目覚めてすぐ、情報を求めた。力ではなく。それは——少なくとも、別の道を模索している証拠です」
「それで十分か?」
「十分ではありません。でも……帝国が滅びれば、私も死にます。今はそれでいいはずです」
打算だ。感情ではない。
俺は小さく笑った。こういう関係の方が、動きやすい。信頼は時間をかけて積み上げるものだ。
最初から信じ合える相手など存在しない——それが俺のこれまでの経験だった。
ただ、今度は感情もちゃんと見る。
打算の裏に何があるか。言葉の温度がどこで変わるか。
それを見落とさない外交官に、今度こそなる。
「わかった。まずは内部を固める。順番は——」
その前に、一つ確認しておきたいことがあった。
「リリア。俺はどれほど強い?」
彼女は一瞬、目を細めた。
「魔法……魔力量だけで言えば、この大陸に並ぶ者はいません」
「魔法というのは、どういうものだ」
「陛下は魔王ですので、魔力量だけで言えばこの大陸に並ぶ者はいません。炎を出す、衝撃波を飛ばす、空間を歪める——応用は無数にあります」
空間を歪める。
俺の中で、何かが小さく跳ねた。
外交官としての理性が「戦力の把握は必要だ」と冷静なことを言っている。それは本当だ。
だがそれとは別に、もっと単純な何かが——
「……使い方を教えてくれないか。簡単なものでいい」
戦力把握のためだ。絶対にそうだ。
リリアの手が、書類の上で止まった。
「……今すぐ必要ですか」
驚きではない。実務的な心配の声だ。
「どのくらい危険だ?」
「陛下の魔力量は、この大陸に並ぶ者がいません。制御の訓練なしに扱えるものでは——」
「それは聞いた。だから聞いている」
リリアは俺を見た。
この男にどこまで話すべきか、という目だ。
「……説明するより経験した方が早いかもしれません。ただし」
「何かあっても私には止められません。それだけ覚えておいてください」
「やってみる」
そう言いながら目を閉じる。
戦力把握のためだ。本当にそれだけだ。ワクワクなんてしていない。
「陛下、魔力の流れを感じますか?」
感じる。
体の奥底に、何かがある。海のようなものだ。静かに動いている。
俺が意識を向けるたびに、それが反応する。波が立つように、膨らむ。
でかい。比喩じゃなく、でかい。
「ああ」
「では、ほんの少しだけ——手のひらに集めるイメージで」
意識を向けた。
ほんの少し。蛇口を一センチだけ開けるような、そういう感覚で。
その瞬間——部屋全体が揺れた。
燭台の炎が一斉に吹き消える。空気が、肌を叩いてくる。
手のひらを見ると白紫の光が、指の間から溢れ出していた。
……これ、一センチ開けた結果か?
「陛下、止めてください——!」
リリアの声が遠くなる。
急いで絞ろうとした。蛇口を閉める。それだけのつもりだった。
だが——閉まらない。
骨が軋んだ。腕の内側から、何かが暴れ閉めようとすればするほど、圧力が増す。
血管が手の甲に浮き上がっていく、指先が焼ける。
制御できない。
常に俺は冷静に分析して、次の手を打ってきた。だが今は——分析する前に、体が壊れる。
「く……っ」
次の瞬間、手のひらの光が弾けた。
白い閃光が視界を塗りつぶす。衝撃が胴体を叩き、足が地面から離れた。
背中が壁にぶつかり、口内に血の味が広がる。
……情報を整理しろ。
習慣が発動した。どんな状況でも、まず整理する。
右腕の皮膚が黒く焦げている。肋骨が一本か二本、いっている。肺に異常はない。致命傷ではない。
よかった。死ななかった。
いや、自分の魔法で死にかけた魔王って何だ。
「陛下!」
リリアが膝をついて駆け寄ってくる。
冷静を保とうとしている。保とうとして——隠しきれていない。
この人本当に大丈夫なのか、そう書いてある顔だった。
「これが……魔王の力か」
「……前の陛下は力を制御するのに、十年以上を費やしました」
「十年?」
「幼少期から、毎日、魔力を絞る訓練を。暴走すれば自らの肉が裂ける。何度も死にかけました」
なるほど。
つまり今の俺は、安全装置のない核弾頭を素手で持っているようなものだ。
俺の手元には大陸最強の力がある。だが引き金を引けば自分が死ぬ。
……まぁ、いつもと同じだ。
外交の現場に、制約のない状況など一度もなかった。予算がない。時間がない。情報が足りない。権限がない。そんな状況で二十年、やってきた。
使えない武器があるというのは、制約の一つに過ぎない。
「つまり俺は」
俺は立ち上がった。
膝が笑っている。壁に手をついて、それでも立つ。
「最強の武器を持ちながら、引き金を引けば自分が死ぬ状態ってわけだ」
「なら、使わない」
「少なくとも、今はな」
「……それは」
その瞬間、玉座の間の扉が激しく叩かれた。
「陛下! 緊急です!」
リリアが振り返る。
「ガルド将軍からの伝令でしょう」
「通せ」
血まみれの魔族兵がよろめきながら入ってきた。
膝が震えている。大きな傷がある。走り続けてぎりぎりの体だ。
「フォートレス・ブラッド砦に勇者が単騎で突入!
ガルド様が必死に食い止めていますが……もって半日です!」
窓の外、北の空に淡い光の柱が立っていた。
俺はそれを見た。
あの光の向こうに、兵士がいる。民がいる。
前の魔王が守ろうとして、守り切れなかったものがある。
その男は自分の魂を賭けて、俺を呼んだ。
(わかった)
「ガルドに伝えろ。全力で守れとは言わない。時間を稼げ。半日でも、一日でも」
兵が頷き、走り出す。
「俺が次の手を考える」
部屋に沈黙が戻った。
リリアが俺を見ている。
「……陛下は、本当に前の陛下ではないのですね」
俺は答えなかった。
前の魔王は力を持ちながら、力で世界を変えられなかった。
俺は力を持てないまま、言葉で世界を変えなければならない。
まぁ、いつもと同じじゃないか。
北の空の光柱を見ながら、俺は静かに思った。
手持ちのカードを把握する。相手の欲望を読む。動かせる駒を探す。
そして今度は——感情も、全部読む。
「リリア」
「はい」
「俺を補佐する気はあるか。打算で構わない」
彼女はわずかに目を細めた。
それから、静かに頭を下げた。
「——承知しました、陛下」
その声に、かすかな温度があった。
それだけで——十分だと思った。
まず、動く。




