1.魔王の最後
石畳に血が広がる。
勇者が聖剣を振り上げた。
魔王軍の将軍の首が落ちるまで、あと一振り。
俺には止める力がない。
魔力はある。
この大陸で並ぶ者がいないほどの力が。
だがそれを使えば、先に死ぬのは俺だ。
だから俺は別の武器を使う。
言葉だ。
「停戦を提案する」
聖剣が止まった。勇者がこちらを見る。
「魔王が命乞いか」
「違う」
「戦争を終わらせる」
勇者が笑った。
「どうやって?」
俺は答える。
「君を勝たせる」
戦場が静まり返る。勇者が眉をひそめた。
「魔王が勇者の勝利を望む?」
「ああ」
「理由は?」
俺は少し考え、適当な嘘をついた。
「戦争に飽きた」
勇者が顔をしかめる。
「どうやって俺を勝たせるつもりだ?」
「簡単だ、俺の命を差し出す」
「ただし、戦争の停止と正式な停戦協定が結ばれた後だ。それまで俺は生きて交渉を続ける。このままいけば魔族は総力戦に持ち込む。だが俺が自ら敗北を宣言すれば、魔族は従うしかない……これで戦争は『お前の勝利』として終わる」
一瞬、戦場全体が息を飲んだ。
勇者の目が大きく見開かれ、聖剣を握る手がわずかに震える。
「……魔王が、自ら命を捨てて俺に勝利を譲ると?」
勇者は信じられないという顔で俺を睨みつけた。
「ふざけるな。そんな馬鹿げた話があるか。絶対に罠だろう」
勇者の聖剣を握る手に力がこもる。
「暴虐を尽くしてきたお前のような存在が、命を差し出す?」
勇者はしばらく虚空を見つめていた。
聖剣を握る手は、まだ下りていない。
「……本気か。お前は」
「ああ」
低く、確かめるように繰り返す。
「……条件が良すぎる」
「そうだ」
俺は否定しなかった。
沈黙。
聖剣の切っ先が、ほんの少しだけ下がった。
勇者は歯を食いしばる。
(こいつは……止まらない)
それはわかる。
今はこの男が背負っているものが止めさせている。
だからこそ、今すぐ斬らなかった。
頭では処理できていない。
だが、体が、剣が、止まっている。
「……俺一人で決める話じゃない」
勇者はようやく、そう言った。
その声に、微かな迷いと覚悟が混ざっている。
「王国に話は持ち帰る。だが」
聖剣が、再びこちらへ向く。
「交渉の場は中立地帯だ。魔族領では話せない。それはわかるな」
「従おう」
一歩、後退する。
しかし目は離さない。
「勘違いするな、魔王。俺は剣を収めたわけじゃない」
「わかっている」
勇者は背を向け、歩き出す。
「賢い判断だ、勇者」
勇者の足が、一瞬だけ止まった。
振り返らず、そのまま戦場の向こうへ消えた。
――俺が魔王に転生してから2日目の出来事だった。
〜国連本部地下、極秘平和交渉室〜
午前三時二十三分。
冷房が効きすぎていた。
この部屋はいつもそうだ。交渉が長引くほど、設定温度が下げられる。疲弊した人間は判断力が落ちる。だから室内を冷やす。誰が決めたのかは知らないが、世界中の交渉室に共通する不文律だ。
俺はそれを知っているから、今夜は薄手のジャケットの下にインナーを一枚余計に着込んでいた。
準備が、仕事だ。
画面に目を戻す。モニターに並んだ電子署名欄。残り、三つ。
あと三カ国。
「……零」
隣から声がした。
佐伯美咲。七年間、俺の右腕として動いてきた人物だ。
入室する時、俺は無意識に相手の状態を読む。歩幅、重心、視線の焦点。今夜の彼女は——肩の位置が低く、呼吸がやや浅い。
「ここまで来たね」
静かな声だった。
十年だ。俺が国連に入った年に始まった代理戦争。
最初の現地調査で、瓦礫の下に腕だけが出ているのを見た。
子供の腕だと気づいたのは、しばらく経ってからだった。
その日から俺は「これを終わらせる」という一点で動いてきた。
感情じゃない。目標だ。感情は交渉の邪魔になる。
だから俺は感情を持たないよう訓練した。
ただ一つだけ、どうしても抜けない癖がある。
疲れた時に甘いものが食べたくなることだ。
ジャケットのポケットに手を入れた。キャラメルが一つ。
美咲に気づかれる前に口に入れた。砂糖の甘さが、喉の奥に広がる。
(もう少しだ)
署名が二つ入り、残り一つになった時。
本国からの電話でハッサン・カリムの顔色が変わった。
一言だけ耳に届いた。軍の動き、夜明け前。
(本国が動いた。署名前に既成事実を作ろうとしている)
「大統領は了承している。我が国は兵を引く」
ハッサンが戻ってきた時、その顔には迷いと覚悟が混在していた。
最後の署名欄が、点灯する。
署名欄が残り一つになった時、部屋の温度が肌に刺さるように感じた。
この署名一つで歴史が変わる。
その瞬間、誰もが無意識に息を止めた。
その時—— 美咲の手に何かが見えた。
見慣れない黒い端末を握っている。
あれは何だ?本能が鋭く反応し、一瞬でそれを分析にかける。
ボタン配置が軍用に近い、右手の親指が、何かのカバーを外している。
「……美咲?」
俺が声をかけた瞬間、彼女は泣いていた。
いつから泣いていた?
笑顔の下に隠れていた。
七年間、俺は彼女の隣にいて——気づかなかった。
「あなたは正しい」
美咲の声は震えていなかった。それが逆に怖かった。
「でも……あなたの正しさは、冷たい」
「美咲」
「ごめんね、零」
クリック音。
小さい音だった。交渉室の静寂の中で、それは恐ろしく鮮明に響いた。
「この合意は、うちの国を殺すの!!」
凄まじい爆発音とともに世界が裂けた。
爆発が、複数箇所で同時に起きた。
鼓膜が潰れ、視界が反転する。
気づいたときには壁に叩きつけられていた。
床に手をついて、立ち上がろうとするが右足が動かない。
モニター。署名は。
確認しようとして、モニターが粉々になっているのを見た。
煙の中で、誰かが呻いている。ハッサンの声だ。
「……なんでだ!!」
血を吐きながら、それでも問いが出てきた。
責める気持ちじゃない。本当に、わからなかった。
俺は、どこで読み間違えた?
外交官として二十年近く人の言葉の裏を読むことを仕事にしてきた。
国家元首の嘘を見破り、テロリストの交渉パターンを解析し、あらゆる場面で「相手の本音」を掴んできた。
それなのに——七年間、毎日隣にいた相棒の本音が、俺には見えなかった。
炎が近づいてくる。
(なぜだ。なぜ見えなかった)
思考が遅くなっていく。血が多い。致命傷だ、と身体の知識が告げた。
口の中に、まだキャラメルの甘さが残っていた。
「……俺が甘かった」
皮肉だと思った。笑おうとしたが、顔が動かなかった。
相手も合理的だと信じた。全員、最終的には「生き延びること」を選ぶと思っていた。
でも人間は、時に死を選ぶ。
誇りのため、国のために。俺はその計算を、していなかった。
意識が遠くなる。
もし、もう一度機会があるなら。
今度は——感情も、計算に入れる。
怒りも、誇りも、愛情も。全部、掌握する。
そして俺を否定したこの世界ごと証明する。
闇が落ちてくる。
————
〜魔族帝国・影の玉座〜
最初に感じたのは、冷たさだった。
石の床だ。頬が触れている。
俺は死んだはずだ。爆発で、血を吐きながら、署名未確定のモニターを見て。
それなのに今、俺は床に倒れていて——生きている。
まず、情報を集める。
血の匂いがするが、俺の血ではない。
目を開けると、皮膚の下で何かが蠢いていた。
熱くも冷たくもない、常識ではありえない感覚。
額に触れると固いもの——角だ。
体の感覚が地球の時と全く違う。筋肉も骨も、神経も、すべて別の物体のように感じられた。
外交官として二十年近く生きてきて、予想外の状況に何度も立たされてきた。
だが「死んで、別の体に入っている」は、さすがに想定外だった。
想定外の時ほど、落ち着け。これも訓練だ。
そう思い目を開いた。そこには石造りの巨大な空間。
正面に玉座。壁に古い文字で何かが刻まれている。
窓は小さく、高い位置にある——外が明るい。昼間だ。
「……陛下」
声がした。
振り返ると、黒いドレスの女がいた。
白い肌に緩やかに波打つ黒髪。紅い瞳と口元に牙。
だが俺が最初に見たのは牙ではなかった。目だ。
服従していない。かといって敵意でもなくこちらをジロジロと観察している。
俺と同じ目だな。
「お目覚めになりましたか、魔王陛下」
陛下。魔王。
……なるほど。そういう状況か。
あとがき
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