41 なすべきこと
酒で憂さを晴らしたところで一時しのぎに過ぎず、現実から逃げ出すことはできない。
どうしたら敬愛する院の信頼を取り戻せるか。解決すべき問題は山積みだった。
大倉新御堂の落成式に、実朝は、京から名僧を呼びたいと考えていた。
だが、昨年の合戦、地震などで民心が疲弊している中で、民にさらなる負担をかけるのはどうかという意見が広元ら重臣達から出された。
実朝は、重臣たちの意見に従って、関東の僧を招くことにした。
重臣達と力を合わせて、善政を行い、民心を安定させること、実朝は、今自分がすべきことはそれだと思った。
あるとき、時房と実朝は、和気あいあいとした雰囲気の中、さらりととんでもないことを語り合っていた。
「御所様、私は、三位になりたいのです!」
実朝に、甘えたような声でねだる叔父時房に対して、実朝もまたにこやかに答えた。
「今すぐは無理だが、いつか望みはかなえてしんぜよう、五郎叔父」
それを聞いた泰時は、とんでもないと言った顔で口を挟んだ。
「叔父上、三位と言えば、公卿の位ではありませんか!何という身の程知らずな!御所様も、そんな簡単に承諾してはなりません!」
そんな泰時に対して、時房はぷっと吹き出しながら言った。
「相変わらず、融通のきかない奴だな、太郎は」
「冗談に決まっているではないか、なあ五郎叔父」
時房と実朝は、息が合ったように笑いながら泰時に言った。
「冗談でも言っていいことと悪いことがあります!」
「五郎叔父くらいの図々しさがなければ、京のやんごとなき方々とはやっていけんのだ」
ますますむきになる泰時に対して、実朝はやや真剣な表情で言った。
(和田義盛は、私との個人的な親しさから、内々に官位の昇進をねだってきたことがあった。それも、昨年の合戦の遠因となったのやもしれぬ。今後はそのようなことは改めねば)
それからしばらくして、実朝は、官位の嘆願は、一族の長を通じてのみ許可することとし、個人的な自薦は認めないとの決定を行っている。
昨年の合戦や地震で民達が疲弊しているうえに、その年は日照り続きだった。
実朝は、雨ごいの儀式を行った。民を安心させるために、これも為政者として必要な公務の一つだった。やがて、実朝の願いが届いたのか、恵みの雨がもたらされた。
実朝は、重臣達と協議し、関東御料の年貢の減免を検討する。それも一度に実施すれば、混乱のおそれが大きいため、箇所を決めて、毎年順番に行うこととした。
叔父義時や重臣達の協力を得ながら、まつりごとに対して真摯に向き合っていく若い将軍の姿は、少しずつ、確実に、人々の心に届いていく。
その年も終わりに近づいてきたころ。
和田合戦のきっかけとなった泉親衡の乱で旗頭にされた頼家の遺児千寿が、再び和田の残党に担ぎあげられた事件が起きた。
二度目の謀反となれば許されるはずもなく、千寿は討伐対象となって追われた末に、自害して果てた。
園城寺にいた公暁は、それを聞いて、我が身と重ね合わせずにはいられなかった。
(三浦義村は、和田側を裏切って、将軍側についた。北条も三浦も、将軍である叔父上のことを認めている。叔父上は、命令一つで多くの兵を動かす力を持っている。叔父上自身がどのような心情であったかに関わらず、和田と千寿の討伐は、間違いなく叔父上自身の判断で行われたのだ)
そのことに気づいたとき、公暁は、誰よりも優しい人であるはずの叔父実朝が、北条よりも、三浦よりも、ずっと強くて恐ろしいと思わずにはいられなかった。
(俺は、千寿のように、知らぬ間に誰かの操り人形のように旗頭にされて、生涯を終えるなどまっぴらごめんだ。どうせ死ぬなら、せめて、自らの意思でもって華々しく戦って散っていきたい。だが、仮に、俺が自分の意思で叔父上にとって代わろうとしても、俺の後見人である三浦も他の御家人達も俺には従うまい)
若い叔父によく似た澄んだ瞳の仏の前で、公暁の心に、新たな暗い闇が生まれ始めていた。
建保三年、西暦一二一五年。
年が明けて、実朝の祖父北条時政が伊豆で静かに息を引き取った。
実朝の中で、もはや時政に対するわだかまりは残っていなかった。己の過去を悔いるかのように仏道に励み、穏やかな余生を過ごした末の最期だったことを聞いた実朝は、心から安堵した。
その年の六月には、禅僧栄西が亡くなっている。渡宋の話、昨年酒で失敗した際に茶を献上してくれたことなど、実朝の脳裏には、偉大な高僧との様々な思い出が蘇った。
人の生死は世の常とはいえ、実朝は、一抹の寂しさを覚えずにはいられなかった。
旅人の負担となる関錢の廃止。京在住の御家人達がさぼりがちな宮中警護について、勤務態度によって賞罰を与えるとの決定。鎌倉の経済発展のため、鎌倉の町人や様々な種類の商人の人数を決めて座を設けさせることなど。
徐々に穏やかさを取り戻していく日常の中で、実朝は、その後も、まつりごとにおいて、地道な努力を続けていく。
朝廷との対応も気を抜くわけには行かなかった。
京の院から、仙洞御所で行われた和歌の会の様子を詳しく記した巻物が贈られてきた。
和歌の世界の美しさに心惹かれる実朝であったが、和歌は同時に院との間を取り持つための重要な手段の一つであり、まつりごとの一環でもあった。