第257話 対価
私は、調薬室の隅に設えられた簡易ベッドに、全身を投げ出すように横たわっていた。
疲労困憊――、そんな言葉がしっくりくるような重みが、骨の髄まで染み渡っていた。
鏡はもう見ていない。
見るのが怖かった。
デュールさんと対峙する前、確かにそこにはまだ30歳前後の、まだかろうじて若く張りのある顔があったはずだ。
しかし小惑星静止から丸一日で、確実に、急激に老化していた。
指先で触れると、皮膚は緩み、顎のラインはぼやけ、目尻と口元も弛んでいる気がする。
LED照明の光を浴びた指先は、以前よりも明らかに乾燥しているように思えた。手の甲の張りも絶対に劣化している。
それは、紛れもなく40歳代あたりに突入した肉体なのだろう――
想像していた以上の絶望だった。
確かに「寿命を使い切る覚悟」はした。
だが、この老化スピードはやはりキツイ。
朝にはまだ30歳前後と思えた自分が、真夜中には明らかな「40歳過ぎ」の姿になっている。
その不条理が、内臓を掴まれるような吐き気を催させた。
前日の過酷な戦い、命を懸けた使命、曲がりなりにも地球を救ったという偉業。
その全てが、この理不尽な身体の変化の前では、どこか矮小なものとさえ思えてしまう錯覚があった。
私は何のために戦った?
この身体になってまで、生き残る意味がどこにある?
ベッドのシーツを指先で強く握りしめる。爪の形までが、少しだけ色褪せて見える。
隣の部屋からは、ヒルダさんとリディアさんが、私が製作したポーションを箱に詰める擦れる音が聞こえてくる。
閉じた瞼の裏に、笑いかけるリディアさんの顔が浮かぶ。
――いやだ。このまま朽ちていくだけだなんて・・・
覚悟を決めたハズなのに、このザマだ。
喉の奥から乾いた笑いが漏れた。まるで魂が身体から分離していくような、虚無感だけが残されていた。
これがデュールさんの言う「価値」の対価。
絶望は想像を遥かに超えて、私の全身を蝕んでいた。
私はハッとして、両手で頬を挟むように数回打ちつけた。
――ダメだ! 吞み込まれるな!
――この命は使い切ると決めたんだ! どうせなら、死のその瞬間に後悔はしたくない!
私は即座に起き上がり、またポーション作りの作業に戻るのだった。
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王城地下、第四宝物庫に隣接する「鑑定の間」
天井まで届く書架と、無数の魔力測定器に囲まれたその広間は、平時の静寂を失い、異様な熱気と困惑に包まれていた。
石造りの大きな作業台の上には、使徒ハルノがもたらした、魔道士セルフィアからドロップしたという「アイテム」の数々が並べられている。
「・・・信じられん。これは、魔力の伝導率という概念そのものを否定しているのか? 」
ライベルク王国の魔道士を束ねる長――オーレインは、手にした水晶片を透かし見ながら、低く掠れた声を漏らした。
彼の周囲には、王立研究所から招集された老練な学者や鑑定士たちが、まるで聖遺物に触れるかのような手つきで記録を走らせている。
室内には、複雑に絡み合う魔道回路の微かな振動音と、羊皮紙をめくる音だけが響いていた。
「 オーレイン様、こちらの宝珠ですが・・・ 」
一人の学者が、震える指先で円盤状の装置を指し示した。
「 既存のどの属性にも該当しません。それどころか、周囲の魔力を吸い込み、全く別のエネルギーへと置換している形跡があります。我々の知る魔道工学の定石が、ことごとく通用しないのです 」
オーレインは鋭い眼光をその装置へと向けた。
長い年月、魔道の深淵を覗いてきた彼にとって、未知の発見は本来――至上の喜びであるはずだった。
しかし目の前に並ぶ品々は、喜びよりも先に「畏怖」を突きつけてくる。
「 魔道士セルフィア・ルーメン・・・ウィン大陸では、右に出る者がいないとまで謳われた若き魔道の深淵。まさかとは思っていたが、やはり『転生』を重ねた者であったか・・・よもや350歳とは 」
「 しかし、聖女様はやはり別格だ。セルフィアほどの『世界の理外』にある存在を討ち果たしたのだからな 」
彼は白手袋をはめた手で、深紅に輝く金属の破片をそっと持ち上げた。
その表面には、微細な回路のような紋様が刻まれている。一見すればただの工芸品だが、オーレインの魔力視には、それが空間そのものを縫い留めるような、強固な法陣の集合体に見えていた。
「 これ一枚で、小規模な村の防壁魔法を張ることができる出力がある・・・いや、それ以上か 」
オーレインは、傍らに控える若い魔道士に視線を送った。
「 解析を急げ。だが、決して不用意に魔力を流し込むな。この『力』が暴走すれば、王城の地下区画ごと消滅しかねん。これはもはや、人が弄んでいい道具ではない。神の工房からこぼれ落ちた部品のようなものだ 」
「 しかし疑問が残る・・・ブラックモア卿らの話では、セルフィアは最期までこれらのアイテムを使用しなかったという。ナゼだ? これらを駆使すれば、あるいは・・・ 」
「 魔道士としての矜持か? だとすれば、あまりに純粋で、あまりに不遜な存在よ 」
「 しかし、初めて見る物ばかりだ・・・ 」
学士たちは一様に生唾を飲み込み、作業の手を止めた。
オーレインは深い溜息をつき、作業台から少し離れて広間を見渡した。
かつて、これほどまでに自身の無知を突きつけられたことがあっただろうか。
主神デュール様の使徒であられる聖女様。
彼女はこの「理」を破壊する力を前にし、そしてそれを撃破し、その代償として何を失ったのか。
オーレインの脳裏に、かつて見たハルノの穏やかな笑みが浮かぶ。
これほどのアイテムを遺す存在と切り結んだ彼女の心身が、無傷であるはずがなかった。
「 聖女様。貴女は一体、どこまでこの王国のために――いや、この世界のために献身なさるのか 」
老魔道士の呟きは、冷徹な鑑定装置の駆動音に消された。
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オーレインの視線が、作業台の最も端、黒いビロードの上に置かれた「ソレ」で止まった。
他の宝珠や金属片のような派手な魔力的輝きはない。むしろ、周囲の光を吸い込むような、不気味なほどに静かな小箱だった。
「 待て・・・これは、鑑定に回したか? 」
オーレインの問いに、周囲の学士たちが顔を見合わせ首を振った。
「 いえ、魔力反応が極めて微弱であったため後回しに。中身はただの薬品かと思われますが 」
「 どけ、ワシが診る 」
オーレインは震える手でその小箱を開いた。中に入っていたのは、透き通るような白銀の液体が封じられた、指先ほどの小さな水晶瓶だった。その液体の中には、燃え残った灰のような、あるいは微細な星屑のような「何か」が、重力に逆らうようにゆらゆらと漂っている。
それを見た瞬間、オーレインの背筋に氷柱を叩きつけられたような衝撃が走った。
脳裏に、禁忌として封じられた古い書庫の、腐りかけた羊皮紙の記述が蘇る。
「 実物は初めて見るが、まさか『転生の揺籃』か? 」
彼の呟きに、室内の温度が数度下がったかのような錯覚が広まった。
それは、ウィン大陸の正史からは抹消された、禁断の秘術に用いる触媒。
肉体が朽ちる直前、精神の核を抽出し、新たな肉体へと定着させるための「魂の接ぎ木」――すなわち、不老不死を擬似的に実現するための、冒涜的なシステムの一部だった。
「 外観はこれほどまでに清廉なのか・・・ 」
白銀の液体は淡い燐光を放ちながら、瓶の中でゆっくりと渦を巻いている。時折その液体の中から、苦悶する顔のようにも、祝福を授ける幼子のようにも見える不確かな影が浮かび上がっては消えていく。
「 オーレイン様? 」若い魔道士が恐る恐る尋ねるが、オーレインは答えることができなかった。
セルフィア・ルーメンが、350年もの時を繋ぎ止めていた理由。その根源が、今、自分の目の前にある。これがあれば、理論上――人は死を克服できる。だがその対価として、どれほどの「魂」を消費し、どれほどの禁忌を犯さなければならないのか。
適合する『器』を見つけるために、無辜の民を攫い、試し、そして廃棄する・・・セルフィアが350年の生を謳歌したその足元には、おびただしい数の屍が埋まっているはずだ。
「 これがあれば・・・ 」
オーレインの声は先ほどまでの冷静さを失い、隠しきれない興奮で震えていた。このアイテムの存在は、ハルノが倒したセルフィアという魔道士が、単なる強敵ではなく「自然の摂理に真っ向から挑み、それをねじ伏せてきた怪物」であったことを証明していた。
そして何より、オーレインを震わせたのは別の思考だ。
――自分のような老いた死を目前にした人間が、この「甘美な白銀の誘惑」を目の前にして、正気を保てるだろうか?
オーレインは、まさに喉から手が出るほどソレを欲している自分自身に気付き、ハッとして我に返った。
邪な思考を振り払い、オーレインは小箱を固く閉じた。
だがその指先は、まだ不気味な冷たさを帯びていた。
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