84・期間限定の恋人・16
小悪魔マユ・84
『期間限定の恋人・16』
「その婚約指輪……返してくれないかな」
クロマキー用の貸しスタジオに行く車中で、黒羽がサイドブレーキを引きながら言った。
M坂の交差点にかかったところで、信号にひっかかった。ここの信号は長い。
「……どういうことなの?」
「それは、会長が用意した、とりあえずのものだ……これ、オレが自分で買った」
黒羽は、ポケットから指輪の箱を取りだした。
「英二さん……」
「もう親父のためじゃなくて……オレと結婚してくれないか」
この行動に移るまで、黒羽は三時間半かけた。
最初の三十分は、美優の寝顔を見ていた。そして自分の気持ちに確信が持てると、すぐに行動を起こした。
――近所の宝飾堂なんかじゃだめだ。
黒羽は、父が亡くなった母のための婚約指輪を作った銀座のT宝飾店まで足を伸ばし、開店前にもかかわらず、シャッターを叩いて、この指輪を用意した。
指輪ができると、会長のマンションに向かい、必要な話をし、会長を説得するのに、四十分の時間と二リットルの水分を費やした。会長の日課のジョギングに付き合いながらの話になったからだ。
それから、会長のマンションでシャワーを借り、スポーツドリンクの二リットルボトルをもらって、区役所に寄り、踊る心臓をなだめながら、車で美優を迎えにきたのだ。
「……やっぱり、それはだめ」
長い間をおいて、美優は大粒の涙を流しながら言った。
「どうして……こんなオッサンじゃだめか」
「そうじゃない、そうじゃない。わたし英二さんのことは大好き」
「だったら……」
「わたし……英二さんに秘密があるの」
「それは……」
ちょうど信号が変わった。
「なんの……どんな秘密なんだ。愛してるって気持ちを殺さなきゃならないほどの秘密なのか……」
美優は、スタジオにつくまで、ずっと黙って涙を流していた。
黒羽は、スタジオの駐車場に車を止めて、静かに言った。
「その秘密って……美優ちゃんの命が……あとわずかってことか……」
「……どうして、そのことを」
「今朝、お母さんから聞いた……」
「同情からなんか、まっぴらよ!」
美優は、ドアを開けて逃げようとした。黒羽は、美優の右手をしっかりとつかまえて離さなかった。
「似たようなことは、お母さんにも言われたよ。親父のためのガセ婚約なら止めてくれって……オレ、しばらく美優の寝顔を見ていたんだ。そして確信が持てた。オレは黒羽英二は吉永美優を愛してるって……」
それから、黒羽は、ここにいたるまでの、今朝の慌ただしい行動の説明をした。
「じゃ、二週間後には香港に行くの?」
「ああ、AKR47HONGKONGを立ち上げるためにね。いっしょに行こう。新婚旅行を兼ねて」
「そこまで……わたしの命はもたないわ」
「人生には奇跡がある。ガンで死を予告されて、その後ずっと生き続けている人だっているんだから。オレが、きっと美優のガンを治してやるから、きっと治して……」
「……英二!」
美優は、黒羽の胸に飛び込んだ。
「ここからは、十八禁!」
早めにスタジオに来ていたメンバーの何人かが、植え込みの陰から、この様子を見ていた。唯一成人の服部八重が、知井子や萌を植え込みに引っ張り込んだ。マユの体を借りている拓美は、こう思った。
――バカな交通事故で死んでなきゃ、わたしの命の半分もあげるのに……。
「みんな、今日の仕事が終わったら、明日の準備。黒羽さんたちに気づかれないようにしっかりね!」
「おお!」
「バカ、声が大きい」
知井子は叱られてしまった。
マユは、二千二百五十万個めのガン細胞を殺していた……。




