冬の到来
ウォード暖房のおかげで暖かい室内。窓は曇って外の月明かりがぼんやりとしか届かない。相変わらず誰もハナとは言葉を交わさない。教科書を隠されたり、小さな嫌がらせは続いていた。それでも、学院に残っているのは意地だった。
「負けたくない。それに帰る場所なんかないもの」
机の上に広げているのは攻略ノートと、気になって捨てられなかった告発文。毎夜ノートを開いて記憶を辿っていた。目的は間違いを探すことと、フレデリカの言葉の解明。何か思い出せそうで思い出せない。
「エステヴァンの婚約破棄でしょ。あの後よね、フレデリカがしつこいって、ぼやいてたの」
ペン先でノートを突く。
食堂で待ち伏せして、エステヴァンの腕に絡みついたり、プレゼントしたりしてた。
「あっ」
正式にフレデリカの親から婚約の打診があったって、言ってた!
確か、テグナ子爵で、領地が隣同士だったはず。
なんで断ったんだっけ?
思い出せない。その代わり、浮かんできたのはフレデリカに初めて睨まれた時のことだった。
ああ、あの時だ。エステヴァンに振られたんだ。
「わぁぁあ」
と廊下に泣き声が響き渡った。最上階へ続く踊り場から女の子が駆け降りてくる。ヴァレンスと連れ立って廊下を歩いていたハナは、驚いて階段を見上げた。彼女と目が合う。その娘はきっと眉を上げてハナを睨みつけ、わざとぶつかって走り去った。
「お前!何すんだ」
「痛ったぁ」
ヴァレンスが怒鳴った。
上から降りてきたエステヴァンが駆け寄ってくる。
「すまないハナ、私のせいだ」
「なんだと?」
「あまりしつこいから、ハナの名前を出してしまった」
「説明しろよ」
「『ハイレーナ嬢が好きだからですか?』というものだから、『彼女以外考えてない』と。『お前のような図々しい女と違って、ハナは優しくて、可愛いからな』と」
「……上手いやり方じゃねえな」
「売り言葉に買い言葉だったんだ。やっぱり不味かったか」
あの時だ!
はぁとため息をついて、椅子の背もたれに倒れ込んだ。
「それで誤解されたんだ。そういうことね」
冬休みを一週間後に控えた週末を、マーサと穏やかに過ごした。茶葉のブレンドをしておやつを作り、暖炉の前で編み物に勤しんだ。日曜の昼食の後、名残惜しい気持ちを抑えて学院に向かう。城門の外の乗合馬車の停留所に向かって、歩いていた。雪こそ降っていないが、空はどんより重い雲に覆われていた。風の冷たさに思わずコートの襟を合わせた時、走ってくる黒塗りの馬車に気がついた。道の端へ身を寄せ、避けようとした瞬間、馬車は軌道を変え、ハナの前に回り込むようにして止まる。
御者台から二人の男が降りてハナの腕を両側から掴んだ。
「失礼」
そのまま馬車の入り口に向かって連れて行かれる。訳もわからず足だけが抵抗しようと踏ん張るものの、逆らえない。
「ハナ、乗って!」
扉が開いて、懐かしい声が聞こえた。
「ウイレム!」
後ろから押され、前からウイレムに腕を引っ張られて馬車に乗り込む。パタンと扉が閉まり中は二人きりになった。ウイレムはそのままハナを抱きしめた。
「ああ、ハナ!会いたかった」
「どうしたの?どういうこと?」
「ごめん、こうでもしないとハナに会えなかった」
「……」
二人は体を離し、座席に隣り合って膝を突き合わせるように座った。ウイレムは王子の装い。黒地に緻密な黒の刺繍の施されたジャケット、整えられた髪。一分の隙もない。少し痩せたのだろうか。制服を着ていたウイレムと別人に見えた。
ウイレムはハナをじっと見つめ、顔を顰めて頭を振った。そして、もう一度深いため息を吐いた。
「ハナ……すまない」
心臓が跳ねる。ウイレムがハナの両手をとった。
「こんなふうに会いにくるつもりはなかったんだ」
ウイレムの空色の瞳がハナを見つめる。
「正式に使者を立てて、婚約の申し込みをしたかった……」
その瞳に悲しみが溢れていて、思わず目を逸らす。
「ごめん、ハナ。何を言っても言い訳にしかならない」
ゆっくり一言一言区切って喋る。ウイレムの手を握り返せない。
別れ話なの?
「夏から、全てが変わってしまった。僕にはもう、ハナと結婚する自由がなくなってしまった」
ウイレムは呼吸を整え、ハナの目を見て一息に言った。
「本当にすまない。君とは結婚できない」
ハナは目を閉じた。
『オリビアン王太子が帰ってこない』
御用聞きの言葉が耳によみがえる。
「許してほしいなどとは言えないけれど、どうか、わかってくれ。この国のためだ」
聞きたくない!
目が開けられない。ウイレムの言葉が体の隅々に染み込んで、痛みと諦めに変わっていく。最後の希望が光を失った。体も心も空洞になる。もう、どうにもならない。
かろうじて目を開け、俯いたまま一言絞り出した。
「……わかりました」
ウイレムの体からほっと力が抜けた。目を上げると彼の顔に安堵の表情が過ぎるのが見えた。
二年前の夏休みだった。
「ハナが好きだ。ずっと一緒にいたい」
オットーの別荘から二人で湖畔を散歩していた。
突然立ち止まって、何も言わないウイレムを覗き込むと突然抱きしめられた。
「ハナは僕が王子でも、王子じゃなくても好きでいてくれるだろ?」
「当たり前じゃない。私はウイレムが好きなの、王子が好きなんじゃないから」
攻略対象だった。ウイレムの求めていた言葉もわかってた。でも……。
ウイレムの手がハナの方へ伸びてきてぎゅっと抱きしめられる。耳元にウイレムの息がかかる。
「愛しているのはハナだけだ」
ハナは手を下ろしたまま、馬車の窓を眺めた。石畳の道。見慣れた植え込み。
だから何?私は、もう二度と元の世界に帰れない……。
ハナはそっとウイレムから体を離した。ゆっくりと腕輪を外して座席の上にポトリと落とす。
「ハナ……」
もう、終わり。
「……帰ります。降ろしてください」
「ハナ!」
ウイレムの整った顔が泣き出しそうに歪んだ。冷めた目で見返すとウイレムが目を逸らした。
「…………わかった」
馬車の扉を叩くと、外から扉が開かれる。先ほどの男が、降りるハナに手を差し出した。背中に視線を感じたけれど振り向かない。
さようなら。
まっすぐ乗合馬車の駅へ向かって歩き出した。




