終わりと始まり
どうやって寮に辿り着いたのか正直あまり記憶にない。気がつけば部屋にいてベッドの上に座っていた。
そうだよね。ゲームは終わったんだもの。帰れなかったんだもの。
枕を抱きしめ顔を埋めた。
このまま、一生帰れないのかな。……お母さん、会いたいよ、会いたい!
翌日から発熱して、三日間、部屋から出られなかった。冬休み前の木曜日には熱は下がったものの、体力が落ちて体がふらつき、学校医から安静にするよう勧められた。金曜の朝、クラスに出ずに帰ることを決め、午後早くに寮を出て家へ向かった。
玄関を開けたマーサの顔を見た途端、膝から力が抜け涙が溢れ出た。両手を伸ばしてマーサの胸に飛び込み、子供のように泣き声を上げた。
「あらまぁ、お嬢様。お辛いことがあったんですねぇ」
しっかりと腕の中に抱かれ、ぽんぽんと背中を叩かれる。
「大丈夫ですよ、マーサがここにおりますから」
マーサの腕の温かさに涙が止まらなくなった。
「ねえ、お母様のこと聞かせて」
ようやく泣き止んで、暖炉の前のソファで毛布にくるまり、お茶を飲んでいた。マーサが微笑んで、ハナの隣に腰掛ける。
「そうですねぇ。初めてお会いしたのはイレーネ様がまだ二歳になる前でしたか。小さくて軽くて、聡明で。今でも『ましゃ』と呼んでくださる声が蘇りますよ」
小さなお母様を想像してふふふと笑ってしまう。
「ユルヴィナ伯爵ご夫妻の末っ子で初めての娘。本当に可愛がっておいででした。ただ、生まれた時から病弱で、食も細くていらして。私も、食べていただくのに苦労いたしました」
「厨房が好きって言ってなかった?」
マーサが破顔する。
「私の夫が料理人で、よくお嬢様にお菓子を差し入れして、それで『見たい』とおっしゃって。料理人たちの仕事ぶりを見て、『いい匂い』とおっしゃって。それからいろいろなものを食べていただけるようになったのですよ」
厨房を背伸びして覗き込む女の子を想像しながら、紅茶を一口味わった。
翌朝、朝食を終え、自室に戻ろうと階段に足をかけた時、王城と神殿の鐘が一斉に鳴り出した。
「何事?」
足を止めあたりを見回す。マーサも厨房から走り出てきた。
「何かあったのでしょうか。見て参ります」
と外へ出ていった。ハナも後ろからついて行く。門の外には同じように鐘の音を気にして外へ出てきた使用人たちの姿が見えた。しばらくすると、馬上の騎士が大声で叫びながら走ってきた。
「国王陛下の御名において申し渡す!王太子オリビアン殿下が薨去された!これより二週間、国中すべて喪に服すものとする。祝宴、楽舞、その他祝いの催しは慎むこと。国王陛下の御意である!」
何度も繰り返されるその言葉を聞き、騎士の姿が完全に視界から消えるまで、見送った。
「なんということでしょう、オリビアン殿下が!」
「噂、本当だった……」
鐘は鳴り止まない。貴族街全体が騒然としていた。
その日から王都は光が消えたように静かになった。門扉には黒いリボンを結び、王城には黒い旗が上がった。五日後の葬儀に向けて王都中が息を殺している。悲しみと喪失感が漂っていた。
例の御用聞きも沈んだ表情でやってきて「本当になっちまった。この国の先行きが不安でさ」と言って帰った。
「兄上は本当にすごいんだ」
尊敬と憧れを滲ませて言っていたウイレム。
「成績は常に上位五人に入り、決断力もあるのに温厚でお優しい。完璧な王になられるよ」
ウイレムは兄に比べて「いまひとつ」と言われ続けてきた。
「同じ親から生まれたのに、どうしてこうも違うのか」
とため息をつき、その後悲しげな微笑みを浮かべて言った。
「でも、僕にはあの責務は耐えられない。『いまひとつ』だから継承権争いも起きない。よかったよ」
自室で物思いに耽っていると、ノックの音がした。
「お嬢様、よろしいですか?」
「なぁに?」
マーサが扉を開ける。眉尻が少し下がっている。
「旦那様からお使いがまいりまして」
と一歩部屋に入って、一旦言葉を切る。こちらの様子を窺っているようだった。
どきりとした。不安な表情のままマーサを見る。
「喪に服す期間中、研究所のお仕事もほぼ中断になるそうで、新年にこちらへ戻っても大丈夫かとお尋ねです」
手は震えているけれど、ハイレーナの叫びは聞こえてこない。何度か呼吸を繰り返し頷いた。
「……わかりました」
いつまでも逃げてはいられない……。帰る場所がここしかなくなったんだから。
マーサはじっとハナを見つめ、頷き返すと部屋を出ていった。
オリビアンの葬儀の日は一日中鐘が鳴っていた。貴族の端くれとして慣例に従い、黒い服を着て過ごした。
父が帰ってきたのは、新年の二日前の夜だった。マーサとの食事を終えて、片付けを手伝っていると、門の呼び鈴が鳴った。
「旦那様ですね」
マーサがハナの顔を窺いながら言う。動悸のする胸を抑えて口の端だけ上げた。
「大丈夫よ」
マーサが勝手口から出て門を開けにいっている間に、深呼吸する。
ご挨拶するだけよ。
そして、玄関に足を向けた。
マーサと一緒に入ってきた父に向かって、カーテンシーをする。
「おかえりなさいませ」
顔を上げて父を見た。
記憶より小柄な父の姿。帽子を脱いで、泣きそうな顔でハナを見ている。
「ただいま、ハイレーナ」
それだけで胸がいっぱいになった。一歩下がると目を伏せて声を絞り出した。
「マーサ、お父様、疲れたので休みます」
そして逃げるように階段を登った。
翌朝、覚悟を決めて階下へ降りると、マーサが待っていた。
「旦那様は早朝にお召し上がりになり、書斎へあがられました。昼食もそちらで召し上がるそうです」
ほっと胸を撫で下ろしながら、肩透かしを食らったような気分もあった。
「旦那様は明後日には研究所へ戻られるそうです」
「そう」
「マーサから、お願いがあります」
厨房のテーブルで朝食を終えてから、マーサが改まった様子で切り出した。
「明日は新年の夜です」
「ええ」
「新年の晩餐だけでも、お二人でなさいませんか?」
「マーサ!」
「お嬢様のお気持ち、マーサはよくよくわかっております。けれど、イレーネ様が生きておられた頃は大切な晩餐でした。いつも私まで混ぜていただいて、四人で食べたではありませんか。最後の年も、イレーネ様のお部屋にテーブルを持ち込んで、みんなで」
マーサの目に涙が光っていた。ハナの目にも涙が浮かんだ。寝たきりになったお母様の枕元で祝った新年の晩餐。体は弱っていたのに、笑顔が絶えなかったお母様。
「一度だけ、一晩だけ。どうか、マーサのために。イレーネ様のために」
ハナは涙を拭って、ゆっくり立ち上がった。不安げな顔のマーサに一言だけ返す。
「考え……させて」
マーサは黙って頭を下げた。




