怒りと悲しみ
「大きな声で罵り合うなど、はしたない」
そこにはハナの耳元で手を打ち鳴らしたアメリアがいた。落ち着いた低い声に廊下が静まりかえる。気がつけば、周りは野次馬の生徒たちに囲まれていた。
「貴族たるもの、いかなる時でも手を出してはなりません」
アメリアはハナの手を上から抑えて降ろさせた。フレデリカに鋭い視線を向けている。
「貴方も。ウイレム殿下が選ばれた方を批判するのは、ウイレム殿下を批判するのと同じ。ましてや口汚い言葉で罵るなど」
フレデリカが後退る。
「お行きなさいませ」
アメリアの言葉に、フレデリカたちが渋々従った。
アメリアはハナに向き直った。ハナの手が自由になる。
「ハイレーナ嬢。貴方はご自分の言動を振り返ったことがおあり?」
アメリアの言葉が胸を貫いた。握りしめた拳に力が入る。
私が悪いと言いたいの?
「真実はどうであれ、誤解を生むような言動は控えるべきですわ」
そんなの知らない。みんなは「そのままのハナが好きだ」と言ってくれたもの。
「ましてや挑発に乗って暴力を振るおうとするなど、もってのほか。ウイレム殿下の品位まで貶めるおつもり?」
じゃあ、あたしは一体どうすればよかったの!勝手に私をこんな世界に連れてきて、頑張って攻略したのに帰れない!いじめられてるのは私!酷いのはあんたたちじゃない!こんな世界、大っ嫌い!
ハナは顔を上げ、挑むようにアメリアを睨みつけた。拳を握りしめたまま、踵を返すとその場から走り去った。
週末は屋敷に帰る。学院にいる間は誰とも話さない。紅葉が過ぎ、気がつけば枯れ葉が石畳の道を埋め尽くしていた。ヴァロネス邸の門を潜って、玄関の呼び鈴を鳴らす。
「はい、ただいま」
マーサの声が聞こえて、玄関扉が開いた。いつものマーサの姿に微笑みかけようとした瞬間、その後ろに立つ姿が目に入り、顔がこわばった。
「おかえりハイレーナ」
「……お父……様」
目元に少し哀しげな笑みを湛える父の姿。
いや!会いたくない!
ハイレーナの悲鳴が頭に響いた。思わず目をつぶって首をすくめる。この声を聞くのは何年ぶりだろう。
「長旅からお帰りになったのですよ。お嬢様をお待ちになっていました」
マーサの探るような視線がハナに注がれ、扉から一歩退いてハナを通す。眉を顰めたまま、仕方なく一歩中へ踏み入れた。
「三日前にお着きになって。お嬢様がお帰りになるなら、待つとおっしゃって」
「……マーサ、気分が優れないの。部屋で休んでもいい?」
顔が上げられず、本当に吐き気までして、マーサに縋りついた。
「ハイレーナ……」
「マーサ、お願い!」
「わかりました。お部屋に行きましょう」
マーサはハナを支えたまま、階段の方へ導いた。父親の視線を背中に感じたまま、階段を登り、自室にたどり着くと着替えてベッドに潜り込んだ。脱ぎ捨てた制服を拾ってクローゼットにしまい、ハナの寝具を確認したマーサが静かにため息をつくのを聞いた。
「後ほど様子を見に参りますね。お昼まで、おやすみなさいませ」
と、扉を閉めた。
「学院へ入れ」
ハロルドの声がする。お母様が亡くなって、葬儀の夜から姿を消したお父様が、突然五ヶ月半ぶりに現れた。ハイレーナの部屋へ入って開口一番そう言った。ハイレーナは父に駆け寄ろうとして広げた両手を落とした。
「手続きは済んでる。十日後に入学式だから」
言い終わるとそのまま踵を返して去っていった。
私の誕生日だったのに……。
涙が頬を伝って目が覚めた。ハイレーナが泣いている。
お父様は、研究の方が私より大切。お母様がいなくなったら、私のことなんていらなくなったの。
十二歳のあの日以来、一度も会っていない。
五年よ。五年もほったらかしておいて、今さら!
「でも、週末も、休暇もほとんど帰らなかったでしょ?夏休みはオットーの別荘で過ごしたし。ちょっと荷物を取りに寄ったくらいだったでしょ?」
でも!手紙の一つもくれなかった!
ハナはため息をついた。胸に広がる深い悲しみが、自分のものなのか、ハイレーナのものなのか区別がつかないまま、布団に潜り込んだ。
そのまま長い時間眠ったらしかった。目を開けた時には、あたりは薄暗かった。サイドテーブルに用意された水を飲む。その時扉を叩く音がして、慌てて布団を被る。
「お嬢様?起きてらっしゃいますか?」
マーサの声がする。ぎゅっと目を閉じて眠ったふりをした。足音が近づいて、テーブルの上に何かを置く音が聞こえる。
「お夕食、ここに置いておきますね。目が覚めたらお召し上がりください」
それからマーサがベッドの端に腰掛け、布団の上からハナの胸をぽんぽんと優しく叩いた。
「旦那様は明日早朝に研究所へ戻られるそうです」
マーサの手が離れた。
「旦那様はイレーネ様をそれは深く愛しておられました。お嬢様のことも……」
閉じた目に涙が滲む。
「お二人とも不器用なのですわ。イレーネ様もきっと心配していらっしゃる」
ぽんぽん。お母さんの手のように。
「今は、ゆっくりお休みなさいませ」
ベッドが軋んでマーサが立ち上がり、やがて扉が閉まった。
翌朝、窓から研究所の馬車が走り去るのを確認して、厨房へ降りていく。入り口に背を向けて腰掛けるマーサの背中がやけに小さかった。物音に振り返ったマーサが寂しそうに笑った。
「おはようございます。お腹が空きましたでしょう。オムレツでも作りましょうね」
と言って椅子をすすめた。気まずくて声を出せないまま、言われた通りに腰掛ける。厨房にはすぐにベーコンを炒める香ばしい匂いが漂った。温めたパンと、香り高い紅茶。黄金に輝くオムレツがハナの前へ置かれる。こくりと喉が鳴ってフォークを手に取った。向かい側へ腰を下ろしたマーサが紅茶のカップを手にハナを見ている。
しっかり全てを平らげて、フォークを置くと、マーサに視線を向けた。
「お父様は、また帰ってらっしゃるの?」
「……ここは旦那様のお家ですから。でも、お忙しくなるはずですよ。来年、第一研究所の所長に就任されるそうですから」
ハナは目を見開く。王立研究所の所長がどれだけ重要な地位かくらいは知っている。
「それから、週末にお戻りになるのは避けるそうです。お嬢様が顔を見てくれるようになるまで待つとおっしゃいました」
体から緊張が抜けてゆく。週末にここへ帰るのが唯一の拠り所だったのだから。
「さあ、今日は何をしてお過ごしになりますか?良い栗が手に入ったので、栗のお菓子を作ろうかと思っておりましたの。挑戦なさいます?」
「する」
そう言って、初めての笑顔になった。




