手紙と外の世界
『ヴァレンスからハナに会ったと聞きました。元気ですか?』
ハナはベッドに寝そべって、アドリアンからの短い手紙を読んでいた。
『僕は息を吐く暇もないほど、こき使われています。ハナの笑顔が見たいと思いつつ、会いに行く時間が取れません』
アドリアンならきっと、生き生き激務をこなしているはず。
次の文章を読んで顔を顰めた。
『もし、ハナに時間があるのなら、新年度の前に少し予習をしておくことを強くお勧めします』
ゲームのシナリオ通りに図書館でアドリアンと会い、勉強を見てもらうことになったのは、入学して三ヶ月ほどたった頃だった。ハイレーナは家庭教師についたことがなく、授業についていくのが難しかった。最初はめんどくさそうに教えていたアドリアンの見る目が変わったのは、計算問題を解いた時。
「もう終わったのですか?早いですね。……しかも、間違いがない」
高校受験、潜り抜けたもん、一応。
それから、少しずつ打ち解けた。
文官になっても、変わらないんだな。
手紙を二つに折りたたんで封筒にしまうと、ころころとベッドを転がって、もう一通の手紙を手に取った。筆まめなオットーらしく何枚にもわたってびっしり細かな字が並んでいた。
『この手紙が届く頃、僕はきっとレグステラにいるんじゃないかな』
そう始まった手紙には、旅の記録が詳細に書かれていた。見たことのない風景が目の前に立ち上がってくるようで、夢中になって読んだ。そしてふと気がついた。
そういえばこの世界のこと、あまり知らないんだ。学院と、屋敷と、毎年夏休みを過ごしたオットーの別荘と。それだけだ。
『南部地方は長雨でメラック大河が溢れ、大変なことになっています。難民が溢れて、我がポロダン商会でも炊き出しを行いました』
「避難民……」
手紙を閉じるとベッドから身を起こして、窓へ向かう。外の風景は夕焼けの空が広がっていて、雨の気配もない。
この世界にも人が暮らしているんだ。
ゲームの画面に映らなかった人たちがいることに、今更ながら驚いていた。
夏が過ぎ去ろうとしていた。日没が少しずつ早くなり、日が落ちると涼しい風が吹く。
ウイレムから連絡は来ない。
夜一人になると、記憶を綴ったノートを開く。何度も読み返したページをもう一度眺めて、閉じた。ベッドに潜り込んで灯りを消す。
本当にこのまま、帰れなかったら?
「きっと、何か見落としてるんだわ。もしかして、結婚しないとダメなのかも。婚約って言ったって、正式じゃないもの」
そう繰り返し自分に言い聞かせ、目を閉じた。
「南部の長雨がえらいことになっているって話でさ」
ハナはクリームを混ぜていた手を止めて、耳をそばだてた。少しだけ開いた勝手口の外から聞こえてくる。
食材を運んでくる御用聞きの声だった。「これと、これ」と野菜や肉を選ぶマーサの声もする。
「へい」
御用聞きが答え、そのまま噂話が続いた。
「メラック大河が大暴れして、鉄砲水やら土砂崩れやら。何人も亡くなってるとか」
オットーが書いてたやつだ!
「王都にも避難民がなだれ込んでくるんじゃないかってんで、教会なんかは大騒ぎですよ」
選んだ食材を木箱に入れている。
「まあ、それは大変ですわね。寄付でも考えないといけませんねぇ」
「いやね、ここだけの話ですがね」
と前置いて、御用聞きの声が一段と低くなった。
「まさかとは思いますがね。支援に行ったはずの王太子様が、帰ってこねえんですって」
王太子?オリビアン王子だ。
「まあ!」
「噂ですよ。よっこらしょ」
木箱を持ち上げた男が勝手口の扉から入ってくる。ハイレーナはボールを抱えたまま、目の届かない貯蔵庫の扉の陰へ隠れた。
「ただね、騎士団が大挙して向かったとか、戻ってきた時は雰囲気がどんよりしていたとかいうんでさ」
調理台に木箱を二つ積んで、男はマーサから代金を受け取っている。
「この間の収穫祭の奉納でも、ウイレム王子のお姿はあったけど、オリビアン王太子は欠席だったというじゃないですか」
ウイレム!
「まあ!滅多なことを言うものではありませんよ」
収穫祭の式典に行けば、ウイレムに会えたんだ……。
貯蔵庫の扉の影に身を潜めながら、神殿の祭壇に立つウイレムを想像する。
「噂ですよ。ただ、本当にひどい状態らしくて。幾つもの村が流されて、崖崩れも多く、滅多なことじゃ近づけないと」
「それにしたって正式な発表がないのなら、勝手な噂を流すわけにはいきません。下手をしたら冒涜罪。お気をつけあそばせ」
マーサの声が厳しくなる。
「へぇ。とにかく王都にも避難民が来れば治安が悪くなりますんで、城壁の外へ出られるときゃご用心を」
と声が聞こえ、扉の閉まる音がした。
ウイレム、公務で忙しいんだ。手紙の一つくらいくれればいいのに。こちらから手紙を送るなんて、無理だよね。どうしたらいいんだろう。
そんな考えに囚われて、オリビアンの話も難民の話も薄れて消えていった。
ようやく長かった夏休みが終わろうとしていた。昨日は新学期の荷物を男衆たちに預けて届けてもらい、今朝は暗い顔で数ヶ月ぶりの制服に袖を通す。今年からリボンは黒。最終学年の色だ。ため息をつきながら窓から見える秋の遠い空と、柔らかい木漏れ日を睨んだ。
まさかまた、あの場所に戻るなんて。
どんよりした気分で鞄を持ち玄関まで降りる。門まで見送りについてきたマーサがハナの両手を握りしめた。
「時々、お顔を見せにきてくださいまし。マーサは嬉しゅうございます」
マーサの少し寂しそうな顔を見る。毎日長い時間を一緒に過ごした夏休みが終わる。
「わかった。次の休暇は必ず戻るから」
そう約束して歩き出した。




