見送り
マーサが後ろへ回ってエプロンの紐を結んでくれる。その白さに一瞬目を細めて、包丁に手を伸ばした。マーサのお手本通りに、じゃがいもの皮を剥き、トントンと手際よく同じ大きさに切り揃えた。
「まあ!お嬢様は料理の才能がおありかもしれませんねぇ」
横から覗き込んだマーサに笑顔を返す。
「他にないの?もっとやらせて!」
「では」
まな板の上にどっさり野菜が乗せられた。
お母様が亡くなって、翌日からお父様の姿が消えた。屋敷の中に誰もいなくなって、寂しくて、悲しくて何も喉を通らなくなった。自室にこもって朝から晩まで泣き通した。何日たったかもわからなくなった頃、マーサが手を引いて厨房に連れてきてくれた。小さなテーブルに座って、マーサが野菜スープを作るのをじっと見ていた。鍋から漂う優しい香り。クルトンを炒めるバターの香り。マーサと向かい合って、泣きながら食べたスープ。
マーサと二人、厨房で食べるようになったのは、あれ以来だわ。
玉ねぎを細かく切りながら、鼻を啜り目に滲んだ涙を瞬きで散らす。
そうか、私が帰ってこなかったら、マーサは一人でご飯を食べるんだ。
父は研究所からほとんど帰ってこないという。手を止めて、麺棒を片手に生地を伸ばすマーサを見た。
ごめんね。……それでも帰りたいの。
毎朝、期待と諦めを込めて目を開ける。ため息と共に起き上がって身支度をする。朝食の後は庭仕事。昼食の支度を手伝って、午後は菓子作りを習ったり、本を読んだり。自分の部屋を掃除することも覚えた。とにかく何かをしていないと、思考が迷路にはまってしまう。
その朝も、帽子をかぶって庭の雑草を抜きながら、頭の中は堂々巡りを繰り返していた。
一体何を間違ったんだろう。なぜ失敗してしまったの?
門の呼び鈴が鳴り、意識が呼び戻される。いつの間にか手が止まっていたらしかった。顔を上げると騎士服を着た若い男が門のところに立っていた。マーサが勝手口から出てきて応対し、何かを受け取ってハナの方へやってくる。汗を拭って立ち上がった。
「ヴァレンス様からお手紙です。お返事をいただけるなら待つと、使者の方が」
ヴァレンス!
差し出された手紙を受け取って、胸が高鳴った。
「わかった。すぐお返事するからお待ちいただいて」
大急ぎで自室へ向かった。
ヴァレンスと初めて会ったのは学院生活二年目の秋。乗馬の実習が始まった頃だった。
「お前、怖がってんだろ。それが馬に伝わるんだよ」
持ち回りで馬の世話を任され、水の入ったバケツを厩に運んできた。ハナを見た馬が、耳を伏せ、鼻に皺を寄せて威嚇した。その大きさに圧倒されて、バケツを持ったまま入り口から中へ入れない。
声に振り返ると、背の高い赤い髪の青年が立っていた。
「馬は敏感で繊細なんだ」
彼はハナを押し除けるように厩に入ると、馬に近づいて鼻面をなでた。
「ほうら、大丈夫だ。小娘じゃないか。水を持ってきただけだ」
「……あの、お願いがあります」
ヴァレンスが鋭い目をハナに向けた。
「乗馬、教えてください!」
「お前、俺が誰だか知ってんのか?」
首を縦に振る。
「怖くねえのか?」
かぶりを振った。
「へえ、いい度胸してんな、お前。いいだろう。教えてやるよ。手加減はしねえぞ」
階段を登りながら、ヴァレンスの不敵な笑みを思い出して、微笑んだ。
『領地へ旅立つエステヴァンの見送り。最初の休憩所で落ち合う約束。一緒に行かないか?馬はこちらで用意する。迎えに行く』
ヴァレンスの不器用な文字。筆無精が滲み出る文章。
もう二度と見ることがないと思っていたのに。
すぐに『喜んで』と返事を書いた。
約束の朝、騎士服で現れたヴァレンスを見てハナは悲鳴をあげた。
「大丈夫なの!?」
「なんてことないさ。訓練が強烈で……いい男が台無しだろ?」
苦笑いしながら頭を掻いたヴァレンスの右目の下は真っ黒に腫れ上がって、左頬にも大きな擦り傷がある。
「怖がらせたか、わりぃ」
大きなヴァレンスの手が伸びてきて、ハナの頭をぽんぽんと叩いた。
「俺、優秀なんだぞ。期待の新人だと。充実している」
とにっこり笑った。
ヴァレンスが連れてきた雌馬は気立がよく、ハナにもすぐなついた。
城壁をくぐり、街道を飛ばして最初の宿場町を通り越した頃には、気温がぐんぐん上がり、全身が汗に濡れた。街道を外れ田園地帯の小道をゆく。水路の巡らされた村の先に小さな湖があった。その手前の広い草地に四台の馬車が止まっていた。馬を降りた途端、湿気を含んだ風が体を包む。駆け寄った従僕に手綱を渡すと、遠くからエステヴァンが手を振っているのが目に入った。
「やあ、よく来てくれた!ヴァレンス!盗賊と間違われそうだぞ」
ハナには手の甲へキス、ヴァレンスとはがっちり握手を交わす。
「昼食を用意したんだ。こちらへ」
侍従に案内されて大きな天幕の中へ入る。ハナの後ろの二人の会話が弾んでいる。
「アドリアンも来たがっていたが、あいつは激務らしい。とても休みが取れる状況じゃないと」
「だろうな。悪名高き『宰相秘書室』だからな」
二人が苦笑する。
「あいつ、本気で次期宰相を狙ってるから、願ったり叶ったりだろう」
「俺たちも、負けてられないな」
「ああ、数年後が楽しみだ」
天幕の中にはテーブルが設えてあり、美味しそうな匂いが漂っていた。ハナは侍従が引いた椅子に腰掛けた。
「ハナ」
エステヴァンが呼びかける。顔を上げると、柔らかな笑みが返ってきた。
「来てくれてありがとう。最後に会えてよかった。……領地へ行ったら三年は帰ってこられないと思う」
「そうなのか?」
「ああ、あちらで後継として実力を示さないとならないし、騎士団連中にも認めてもらわないと」
「だな」
ヴァレンスと二人で頷く。食事が運ばれ、給仕が去るとエステヴァンが続ける。
「お前たちと知り合えて、良かった。それまでの私は敷かれたレールにうんざりしてたんだ。全てが退屈で、息苦しかった。身分を超えて、話し合い、たくさんの気づきをくれた。今は、清々しい気持ちでいるよ。これから精一杯努力して、良い領主になる」
エステヴァンの晴れやかな表情に、少しだけ罪悪感が顔をだす。
攻略対象だったから、闇堕ちを避けたかったから、それだけなのに。貴族のマナーやダンスを教えてくれたのはエステヴァン、あなたなのに。
「確かに、ハナがいなきゃ取り澄ました伯爵様なんぞ、友人になどならなかったわな」
「強いだけの野生児もごめんだぞ」
「おい!」
天幕に笑いが満ちて、侍従が出発時刻を告げに来るまで、昼食とおしゃべりを楽しんだ。
馬車へ向かうエステヴァンについてゆく。
「ハナ、笑って。笑顔で見送ってほしい」
いつものように手を取って、口づけを落とす。そのままスッと引き寄せられてエステヴァンの腕の中へ。
「おい、ウイレムに嫉妬されるぞ」
「今日くらい許せ」
さよなら。
心の中で別れを告げた。
四台の馬車が街道方向に向けて走り去るのを見送ったあと、ヴァレンスと二人、繋いでいた馬の方へ歩き出した。
「大丈夫かハナ?」
「……」
「腕輪、してないんだな」
「傷つけるのが怖くて……」
「そうか……あいつは口だけの男じゃないよ。信じて良い。心配するな」
目を逸らして小さく頷く。
「奴の迎えを待つ間、今しかできないことを十分楽しむんだ。あと一年の学院生活、オットーがいるだろ?」
そう言ってハナの頭をポンと優しく叩いた。
もう一年も?
嫌な考えを振り払い、鞍に跨った。




