マレシュの誘いとエルヴァ
ハイレーナは図書館に向かって歩いていた。編み上げブーツの踵を鳴らして早足だ。
朝食へ降りたハイレーナを迎えたマーサの、安堵の表情にまたイライラが募った。玄関口でお弁当の包みと、エルヴァへのお裾分けを受け取った時も、目を合わせず、「ありがとう」とだけ返事をした。
「絶対街へ行ってやる。パン屋へ行けばいいんでしょう。パン買うくらいなんでもないんだから!」
前世では電車通学だった。放課後、友達と一緒に一駅前で降りて、商店街のクレープ屋に寄り道なんてしょっちゅうしてたもの。
「ヴァロネス様!」
門兵に許可証を見せ、前庭を突き進んでいる時だった。その声に思考が切れて立ち止まる。振り向くと、詰所から一人の衛兵が駆けてくる。近づいてくるにつれ、マレシュとベトランタ語で話していた衛兵だと気がついた。
ハイレーナから数歩の距離で止まった彼は右手に握っていた手紙を差し出した。
「マレシュ・ラディック様より、お手紙を預かっております」
心臓が勢いよく跳ねる。差し出された、少しよれた封筒をまじまじと見て、受け取った。
『ハイレーナ・デ・ヴァロネス様』
強い筆跡の端正な文字が並んでいる。裏返すと、赤い封蝋が目に飛び込んできた。差出人の署名はない。
「お返事は僕に。詰所にいます」
青年は、俯いたままハイレーナの目を見ない。ニキビの跡を見ながら「あなたのお名前は?」と問うた。
「バルゴ、と申します」
「失礼ですけれど、マレシュ様とはどのような?」
「親の代から、お世話になっています……」
「そう、ではバルゴ様、後ほど」
「はい」
と小さく返事をして青年は走り去っていった。
受付台で、エルヴァに「お裾分け」の伝言をすると、二階のいつもの机に陣取った。まず手紙を取り出して眺めた。ハイレーナは周囲を見回してから、慎重に封蝋を切った。中には一枚の紙とブティックのカード。
『ハイレーナ・デ・ヴァロネス様』
紙を開くとふわっとシトラスウッドの香りが立ち上がった。
『次の祝日、私の営むブティックにご招待申し上げます。その日は広場に屋台が出ます。ぜひ、ご案内したい。もし、承諾いただけるのならば、ご自宅へお迎えに参ります。マレシュ・ラディック』
迎えにくる?マーサがなんて言う?お父様が許してくださる?
「いったいなんて説明すればいいんだろう」
手紙は畳んで封筒にしまったけれど、気もそぞろで午前中は何も頭に入ってこなかった。
小部屋の窓からは、抜けるような秋の青空が見える。
包みから出した、ダークチェリーのタルトを前に、感嘆のため息をついたエルヴァは「お茶を入れ直しましょう」と言って席を立った。
ハイレーナはテーブルの上に頬杖をついて、もの想いに耽る。手紙とパン屋、オットーとマーサ。
半分目を閉じたハイレーナに、湯気のたつカップを差し出しながら、エルヴァが話しかけた。
「それで、世間知らずと言われたことに腹が立ったのですか?」
ハイレーナはゆっくりと視線を戻し、カップを見つめてため息をついた。
「世間知らずは本当です。だけど……」
エルヴァは何も言わずお茶を飲む。静かな目がハイレーナを包む。考え考え、言葉を続けた。
「オットーは学院に入った時から、私の味方でした」
十二歳の夏『屋敷へ帰りたくない』と涙目で打ち明けると、迷うことなく別荘に誘ってくれた。ああ、そうか。
「話を途中で遮られて『面白そうだね、頑張って』という言葉を期待していたのに、世間知らずを指摘されて……」
それで腹が立った。私の知らない間に、マレシュのことをこそこそ話していたのも気に食わなかった。
「ああ、私……ちゃんと話し合えばよかった」
エルヴァはタルトにスプーンを差し込んだ。ゆっくり口元へ運んで、一口。味わって目を細める。
ハイレーナもタルトを引き寄せた。スプーンを手に取り、タルトの周りを突いて崩した。
「それで、街へ出たいとお思いですか?」
視線が揺れる。
どうしよう。でも、エルヴァなら……。
ハイレーナはポケットの中に忍ばせていたマレシュの手紙をテーブルに置いた。エルヴァの手が止まる。
「読ませていただいても?」
小さく頷くと、エルヴァが手紙を広げる。ブティックのカードがひらりと落ちた。それを拾い上げ、手紙とカードにさっと目を通す。
「この方とは、図書館で知り合ったのですね。それで、行きたいのですか?」
エルヴァが手紙を折りたたんで封筒に戻し、テーブルに置く。彼女の淡々とした口調に安心して頷いた。
「どうしたら、マーサやお父様に許可していただけるか、わからなくて」
「街へ行ってみたいというお気持ちはわかります。ただ、素性もよく知らない男性と二人きりというのは不用心です。正式な招待状でしたら、普通はお屋敷の主、お父様へ届けられるはず。これは、ハイレーナ様に直接手渡されたものでしょう?」
「……やっぱり、だめですよね」
「――私が同行いたしましょうか?」
はっと顔をあげて、エルヴァを見た。
「見たいのであれば、見れば良いのです。ただ、危険は回避する。皆が納得する方法をとること」
エルヴァはタルトを一口ずつ味わう。最後の一切れを名残惜しそうに食べ終えると、お茶をこくりと飲んだ。ほっと満足の吐息をついて、ハイレーナに優しい目を向けた。
「新しいお洋服を買って、屋台を覗きましょう」




