オットーと喧嘩
「いいか、ゆっくりだ」
三階の実験室でトニスに見守られながら、溶液に赤い液体を少しずつ足して攪拌する。以前ハロルドが作ったカルネアの原液をインクに仕立てているところだ。
秋が少しずつ近づいて、日によっては肌寒い。
「よし、回路ペンに移すぞ」
出来上がったインクを慎重に流し込むと、トニスが陶器でできた板を一枚取り出した。
「一型の回路を書いてみろ。もう覚えただろ?」
頷いて、回路ペンを手に取る。震えないように深呼吸して、ペンを板に滑らせた。書き終わって大きく息を吐くと、トニスが横から覗き込んで「うん、初めてにしちゃ悪くない」と言った。
「さて」
と言ってトニスが小さな緑色の玉を二つ机に置いた。ビー玉より小さい。
「これは?」
「クズウォード。ウォード結晶を生成するときに出るんだ。エネルギー含有量が少なすぎるんで、起動実験くらいしか使い道がないんだが」
そう言いながら、トニスは一つ目の玉を摘み上げる。
「よーく見ていろ」
ハイレーナは息を殺して顔を近づけた。クズウォードをゆっくり回路の起点に置いた。
ウォードの接触部分から回路の線が静かに光はじめ、先へ先へと伸びていく。そして、回路の端に手のひらほどの炎が上がった。
胸元で手を組んで息を潜めていたハイレーナは歓声を上げた。
「成功だな」
「……こんなに回路が光るなんて知らなかった」
「綺麗なもんだろ?振動も僅かに感じるしな」
クズウォードと光る回路、小さな炎から目が離せない。
「……すごい」
「学生にも大人気の実験なんだ。実際に回路が起動するところはなかなか見れないからな」
一分ほどで、ふっと振動が止み、炎が消えた。
「終わったか」
クズウォードは黒く変色している。それを摘み上げると、ゴミ箱に放り込んだ。
「クズウォード……」
「使い道が、このくらいしかなくてな」
「たくさん出るのですか?」
「まぁな。高圧縮ウォードを作り始めてから、大量に出るようになってな。学生や各研究室に配ったりしてるんだが。よし、今度はお嬢が置いてみろ」
その日の夜、ハイレーナの頭の中は光る回路とクズウォードでいっぱいだった。
「ちゃんと使えるのに、もったいないよね」
小さなもの、小さな出力で済むものなら、使えないかな。炎。小さな炎……。
それから数日は図書館に行くと、回路の出力を絞るインクの配合を調べたり、回路の種類を考えたりして過ごした。
時折、マレシュの姿を目で探したけれど、あれから見かけることはなかった。
次の週、図書館から帰ってくると、門の前にポロダンの馬車が止まっていた。
「オットー!」
玄関に駆け込むなり大きな声で名前を呼ぶ。マーサと立ち話をしていたオットーが振り向いた。すかさず駆け寄って「どうしたの?」と手を掴む。
「紙挟みが出来上がったのでね。それと防水布と紙の試作品も持ってきた」
「こんなに早く?」
話しながらサロンに落ち着く。
「紙挟みはほぼ完成していただろ?」
オットーが取り出した小さなガラス瓶には大小のクリップが詰まっていた。
「王城の文官や研究所に配って、反応は上々。注文が入り始めているよ」
続いて小さな布切れと、茶色い半透明の紙が出てくる。
「防水布はもう少しかかりそうだ。紙のほうは『油紙』と名前をつけて、商店に配り始めたよ。もう一、二ヶ月もすれば利益が出始めるさ」
「絶対売れると思ってる?」
「売れるさ。紙のほうは粗紙を使うことにしたんだ。思ったより価格が下がったし、周知されれば売れる」
オットーの顔に不敵な笑みが浮かんだ。
「なんか、すごい……」
圧倒されてぼんやりしたまま、マーサの淹れてくれた紅茶に手を伸ばした。添えられていたアーモンドクッキーを口に入れる。オットーはソファーに深く腰掛けたまま、ハイレーナを見ている。そして、唐突に言った。
「馬車がなくて困っていない?」
「またその話?」
「この前は突然の雨に降られて、どこぞの誰かに送られて帰ってきたとか」
……マーサ!
唇が開いて、ハイレーナの耳が朱に染まり、視線はマーサを探した。
あの日、玄関に入るなり、待ち構えていたマーサに『あれは誰か?』としつこく聞かれた。
「大丈夫。今はダグもいるし、本当に困ったらお迎えに来てもらうから」
一呼吸分だけ見つめ合ったあと、視線を外したのはオットーだった。
「……そう」
「そんなことより、この前ね」
先日の実験が頭に浮かぶ。今夢中になっているもの。そっちのほうが重要だ。
「クズウォードを使って何か作りたいと思ったの。たとえば、単純な回路で、小指の爪の先くらいの小さな炎を出す器具。火おこしとかに使えない?」
興奮を抑えきれず、早口になる。
「それなら、庶民にも手が届くかもしれないでしょ?彼らの生活を少しでも楽にできたら……」
腕を組んで聞いていたオットーが低い声で遮った。
「ハナは」
そこで初めてハイレーナはオットーが苛立っているのに気がついた。
眉を寄せ、目を細めてオットーは続けた。
「庶民の生活の何を、知っているの?」
ハイレーナの動きが止まった。
ゆっくりと体を起こして、オットーが身を乗り出す。
「知らないのに、想像で語っていない?」
ハイレーナの呼吸が止まった。オットーの目が鋭くて、刺されたような痛みを感じた。
想像じゃない。前世の記憶があるもの。
「街を歩いたことは?」
だって『供を連れないで城壁の外は歩いてはいけない』と言われてたんだもの。
オットーの目がハイレーナから離れない。
「パン屋の職人の給料を知ってる?そもそも、パンの値段を知ってるかい?」
ハイレーナを見つめたまま、背もたれに身を預けるオットー。
「助けたい相手のことを知らないって、自己満足になりかねない、と思うよ」
腹の底から黒い怒りが立ちのぼって、煙のようにハイレーナを包み込む。
「……わかった。街へ出ればいいのね」
オットーを睨みつけた。
「知ればいいんでしょう?」
そして勢いよくソファーから立ち上がった。
「わざわざ、商品を届けてくださって、ありがとう」
スカートの裾をつまんで淑女の礼を取る。
「今日のところは、これでお引き取りくださいませ。オットヴァルド様」
我に返ったように、オットーが組んでいた足を解いて立ち上がった。顔が歪んで眉尻が下がっている。悲しげなその目を睨みつけたまま手で出口を差し示した。オットーは諦めたようにため息をついて玄関に向かった。
玄関の扉を閉めたところで、マーサが厨房から顔を出す。
「あら、もうお帰りに?お食事を用意しておりましたのに」
ハイレーナは冷えた視線をマーサに向けた。
「気分がすぐれないので、私も夕食はいらないわ。部屋で休みます」
何かを言いかけたマーサを目で遮って、階段を上った。




