突然の嵐
「なるほど、そういう意味だったのですね」
「ええ、ここは間違えやすいかもしれません」
男が抱えてきた本はウォード製品開発の歴史を扱ったものだった。内容も面白く、ハイレーナも夢中になった。二人で顔を突き合わせて文字を追う。
「そうか、ベトランタ語に似たような単語があるので、意味を取り違えていました。なるほど!」
男の理解は早かった。質問も的確で、ハイレーナも答えに詰まることがあった。艶のある声が耳に心地よい。
「ありがとうございます。すっかりお時間をとらせてしまいました」
男が本を閉じた時、名残惜しいような気さえした。
「いえ、とても興味深かったです」
気がつけば、もうそろそろ帰る時間だった。
立ち上がった男は視線を窓へ向け、外の様子を窺う。
「暗くなってきましたね。雨が降りそうですよ」
つられて外へ目を向ける。午前中は薄曇りだったのに、今は厚い雲が迫ってきていた。見ている間にもどんどん暗くなって、ウォード灯が点灯する。
「まあ、どうしましょう」
ハイレーナは帰り支度を始めた。傘は持っていない。受付台で借りられるだろうか。
「お迎えの馬車を呼びましょうか?馬車だまりにいるのでしたら、ひとっ走りして呼んできますよ」
男の声に、首を振った。
「いえ、今日は徒歩で帰るつもりでしたの」
「それは……」
男は目を見開いてハイレーナを見た。しばらく考えるように動きを止めた。そして、軽く頭を下げて礼をした。
「レディ。失礼でなければ、私の馬車で送りましょう。今日のお礼だと思ってください」
話している間にもどんどん暗くなっていく。ハイレーナは頷き、荷物をまとめ急ぎ足で階段を降りる。ハイレーナはちらと受付台に目をやったけれど、エルヴァの姿はなかった。
外に踏み出した途端、風がハイレーナの髪を巻き上げた。土の匂いが立ちのぼる。前庭の木が音を立てて激しく揺れている。水滴はまだ落ちていない。
「少し走りますよ。急げば濡れずにすみそうです」
男はハイレーナの手をつかみ、前庭に飛び出した。石畳を走り抜け門をくぐったところに待っていた馬車に飛び込んだ。背中を押されるようにして、座席に座る。
「なんとか間に合いましたね」
扉を閉めた途端に大粒の雨が窓を叩き始めた。ハイレーナは胸に手を当てて、乱れた呼吸を整えた。動悸がおさまらない。男は、持っていたバスケットと鞄をハイレーナの横に置くと、真正面に座った。息は乱れていない。
「出発しましょう。どの辺りですか?」
「東の一の門の近くです」
頷くと御者に合図を出した。
大きな雨音の中、ゆっくりと車輪が回りだす。
「改めまして、私はマレシュ・ラディックと申します。ベトランタ人で、ブティックを経営しております」
マレシュが胸に手を当てて、頭を下げた。
「レディ、お名前を伺っても?」
背もたれに深く身をあずけたマレシュと目があった。視線を下へ逸らすと、彼の膝の上で組まれた白い手袋が目に入った。
「ハイレーナ……ハイレーナ・デ・ヴァロネスと申します……」
最後は絞り出すような声になった。図書館で楽しく過ごした時間が、終わりになってしまうかもしれない。
マレシュの気配がわずかに揺らいだ。ハイレーナはため息を隠して、顔を上げる。
「もしやヴァロネス博士の?」
目を少しだけ丸くしたマレシュ。窓を叩く雨音がさらに激しくなった。馬車の速度が落ちる。
「それは……たいへんご苦労が多いのではありませんか?」
下がり気味の目尻をさらに下げたマレシュの瞳には、気遣うような色が浮かんでいる。ハイレーナは意表を突かれてその目を見つめた。雨音だけがうるさく響く。
「失礼なことを申し上げました」
「いえ、そんなふうに言われたのは初めてで。でも、嬉しかったです」
マレシュは小さく頷き、晴れやかな笑顔を作った。
「レディのような可愛らしいお嬢様に、私のブティックへ、ぜひ来ていただきたいものです」
可愛らしい?
ハイレーナはむっと唇を引き結んだ。まるで子供扱い。反射的に「わたくしは」と答えて言葉が続かない。視線が泳いだ。そういえば、ブティックなど足を踏み入れたことがない。服はいつも、マーサが用立ててくれていた。
「……あまり城壁の外へ行ったことがありませんの」
言ってからかっと頬が熱くなって、目を窓の外に向けた。少しずつ雨足が穏やかになってきている。馬車が速度を上げているのがわかった。
と、雨音に混ざって、小さく笑う声が聞こえてきた。振り向くとマレシュが唇に拳を当て、肩を振るわせて笑っている。
「実に愛らしい……いや、レディ、失礼しました」
咳払いをして息を整えると、にっこり笑った。
「ぜひ、いらしてください。店にも街にも。私がご案内いたしますよ」
徐々に馬車が減速し、東の一の門が近づく。正確な屋敷の位置を伝えた頃には、外は明るくなっていた。馬車はゆっくり屋敷の門に近づいて、止まった。
扉を開け、マレシュが降り、左の手袋を外した。その手をハイレーナに差し出す。案外しっかりしたその手に手を重ね、ステップを降りた。
「レディ」
雲が薄くなって、夕暮れの光がうっすらと差し込んでいる。雨上がりのツンとした匂いが鼻を掠めた。
ステップから離れ、手を離そうとした瞬間、ぎゅっと握られすぐに離された。マレシュを見上げると、からかうような笑みが返ってきた。庭の奥からダグが現れ、門を開ける。マレシュはダグに視線をやると、さっと一歩引いてハイレーナに礼をする。
「本日は、お力になってくださり、ありがとうございました」
「こちらこそ、送ってくださって、助かりました」
礼を返す。背筋を伸ばしたマレシュがすっと身を寄せて、「待っていますよ」と囁いた。一瞬後には踵を返して、ステップに足をかけていた。馬車に乗り込むと、窓から手を振る。
「では、また」
と聞こえるのと、車が走り出すのは同時だった。




