エルヴァとレモンタルト
「何かお悩みでもあるのですか?」
窓から見えるのは曇り空。小窓から差し込む光は弱い。紅茶の香りが満ちた小部屋でエルヴァが尋ねた。テーブルの上には食べ終わったサンドイッチの包みと、二切れのレモンタルト。
どうやら気がつかないうちに、ため息が漏れていたらしい。
「いえ……あの……はい」
煮え切らない返事をしてから、エルヴァを見た。
「私でよければ、お聞きしますわ。これでも口は堅い方ですから」
小さく微笑んで頷くエルヴァに、何を言ったらいいのか、考えがまとまらない。
「エルヴァさんは、どうして司書になろうと?」
「そうですね。本が好きでしたの。王都に来て、一人で生きていこうと決めた時に浮かんだのは司書の仕事でした。本に囲まれて生きていきたいと」
エルヴァは紅茶を口に含んで、カップを置いた。
「将来のことですか?」
「……はい。やりたいことはあるんです。でも、自分がなれるかどうか自信がない」
「お聞きしても?」
「研究者に……なりたいと」
小さな声だったけれど、初めて口にした気がした。エルヴァは目を見開いた。
「最初は物作りがしたいだけ、だったのですが、勉強していくうちに回路や伝達物質も面白くて。でも、国家試験に受かるなんて自分には無理だと……。それに父が……」
「お父様は反対していらっしゃるのですか?」
「いえ、父は手伝うと……」
あのあと、カルネアの原液を小瓶に詰めて、ハイレーナに渡したハロルドは、こう言った。
『もし、ハイレーナが研究者になりたいのなら、僕もトニスも全面的に協力するよ』
「父がすご過ぎて……恵まれ過ぎていて……」
かちゃり。
カップを置く音が響いた。
「わたくしは、司書試験に合格するまで、五年かかりましたわ」
驚きに息を呑んだ。エルヴァが静かに微笑んでいる。
「王都に来て、何もわからず、様子見で受けた一度目の司書試験は散々でした」
エルヴァの顔に苦笑が浮かぶ。
「生きるためになんでもやりました」
エルヴァは淡々と語る。
「働きながら時間を見つけて手当たり次第に本を読みました。三度目の試験に落ちた後、試験官の一人に呼び止められました。『仕事が欲しいのなら、王立図書館で清掃をしないか』と。その初老の男性は王立図書館の司書でした」
彼の元で二年間、図書館の清掃から書籍の整理、簡単な修復をして働いたという。毎日夜遅くまで残って、朝は一番に来た。働いて、読んで記憶して、学んだ。そうしてようやく五年目にして司書試験に合格した。
「その司書は、私に職を譲る形で――退職しました」
ハイレーナはじっとエルヴァを見つめる。
「研究者の道がいかに厳しいか、一番ご存じなのはお父上とペトリ様です」
言葉がハイレーナにゆっくり染み込む。
「ヴァロネス博士にペトリ博士。たいへん結構。利用なさいませ」
エルヴァはゆっくりとレモンタルトの包みを広げ、香りを吸い込むと、幸せそうに微笑んだ。
視線をハイレーナに戻す。
「あなたの受けた恩恵は、次の世代に返せば良いのです」
そして、にっこりと笑った。
昼食から戻っても、頭の中はエルヴァの言葉でいっぱいだった。午前中の続きを読む気になれず、書架を彷徨い歩いて本のタイトルを読む。
『国家試験攻略問題集』
思わず引っ張り出して開いてみる。
「うわ……」
難しい。それだけはわかった。知識の量が半端ない。どれだけの書物を読んだら、この量の知識が入るのだろうか。
「おや、また会いましたね」
艶のあるバリトンが聞こえた。微かなベトランタ訛り。いつかの金髪の男だった。
「こんにちは」
男の笑顔に一瞬見惚れてから挨拶を返す。
「今日は何を読んでおられるのですか?」
男はハイレーナの手元を覗き込んだ。ふっとシトラスウッドの香りが立ち上がる。
「いえ、これは……」
慌てて本を閉じた。なぜだか耳が熱くなる。
「ほう、研究者を目指しておられる?」
「まだ、そういうわけでは……」
男は顔を上げ、ハイレーナを覗き込んでふわっと笑った。ハイレーナは子供扱いされたような気がして、きゅっと唇を引き締める。すると、男は顎を引き、目尻を下げて上目遣いでハイレーナを見た。
「レディは、ウォードに関してお詳しいですか?」
「詳しくは……ありません」
「しかし、勉強してらっしゃる」
「ええ……まあ」
彼はスッと体を後ろに引いた。
「お願いがあるのですが……。ウォード製品についての文献で、どうしてもよくわからないところがありまして。助けていただけないでしょうか」
ハイレーナは男をまじまじと見た。困ったような顔をして、後頭部に手をやっている。少年のような表情に不意を突かれて、どきっとした。
「私のアルバード語が未熟なせいです。なかなか、他の方に声をかけづらく」
男の視線を辿って周りを見回す。机に向かっているのはいかにも、学生や文官、研究者。脇目も振らず熱心に調べ物をしている人ばかり。ハイレーナはくすっと笑った。
「私でお役に立てるか分かりませんが、いいですよ」
ぱっと笑顔になった男は「ありがとうございます。では、本を持って参ります」と言った。




