契約と三階の秘密
その夜から『伝達物質総合図鑑』を読み始め、浮かんだ疑問は図書館で調べるようになった。帰宅して父が帰るまでは回路ペンの練習。夕食後はまた図鑑に戻る。伝達物質の面白さに夢中になった。原料の採取、加工、抽出方法、溶液の配合。濃度。微妙な差で作用が変わる。そして『王家の森』。全ての伝達物質は『王家の森』でしか採取できない。王城の背後から、古代遺跡を取り囲むように続く広大な森。入れるのは研究所で働く職員と研究者のみ。
本を閉じて灯りを消し、目を閉じた。ハイレーナの想像の森は神秘に満ちていた。火の伝達物質、カルネアの赤い花が咲き、風のシルファの白い花が揺れている。
「いつか見てみたい……」
休館日以外は毎日図書館へ通っている。その日、一番奥の書架を眺めていると、一角が『ヴァロネス博士』に割かれていた。ハロルドの著書、論文のまとめ、そして、別の研究者が書いた父の本。
「『ヴァロネス博士の軌跡』か……」
その話をエルヴァにすると、「地下室にはヴァロネス博士の論文を集めた部屋がございますよ」と言われて驚いた。
「研究者と学生専用なので、ハイレーナ様をお連れすることはできませんが」
ため息が出た。
次の休館日。ヴァロネス邸のサロンには、トニス、ハロルド、オットー、ハイレーナが揃った。オットーの補佐官が数枚に及ぶ契約書を配布し、ハロルドとトニスが丁寧に読み込んでいる。ハイレーナも最初は読んでみたが、よくわからない言葉が並んでいたので早々に諦めた。ハロルドとトニスの質問に答える補佐官を眺めていると、オットーと目が合った。
「大丈夫だよ。不備も不正もないから」
「うん……ラナスの方はいいの?」
ハイレーナの問いにオットーは苦笑いした。
「まあ、ね。こっちの方が忙しくなっちゃったんで、しばらくは王都とベドレインを行ったり来たりかな。ラナスはとりあえず、有能な者がいるから」
「ふーん」
ちょうどその時、トニスとハロルドが契約書をテーブルに置き、ペンを取り出した。
「では、こちらにサインを。ハイレーナ様もどうぞ」
言われた箇所にサインをする。何枚も何度も。最後にオットーがポロダン商会の印章を押した。
「契約はこれで完了。で、ハナ、図書館へ徒歩で通っているんだって?」
契約書を揃えて鞄へしまいながら、オットーがハイレーナに話しかける。首を傾げると、照れ隠しのような笑顔が返ってきた。
「いや、うちの馬車を使わないか?送迎くらい請け負うよ」
「ハイレーナ、それはありがたい申し出だよ」
「大丈夫、今のところ不便はないから。ちょうどいい運動になっているし」
「しかし……」
「いらない。大丈夫だから」
語気が荒くなる。諦めたようにハロルド、トニス、オットーが目を見合わせた。
「……じゃあ、そのうち必要になったら、いつでも言って」
「……わかった」
オットーはハロルドとトニスに丁重に挨拶をし、補佐官と共に馬車に乗り込んだ。見送りに出たハイレーナに笑顔で、「また近いうちに来るよ」と言って、帰って行った。
玄関に戻ると、トニスとハロルドが何か話し合っていた。ハイレーナに気がついたトニスがにっと笑った。
「お嬢、俺はこれで帰るが、今日はハロルドがいいものを見せてくれるそうだよ」
「いいもの?お父様?」
「うん。熱心に勉強しているようだから、伝達物質の抽出をね」
「本当?」
「おう、迎えが来たようだ。じゃあまたな、お嬢。ハロルド」
トニスが出ていくのを見送って、ハロルドを振り返る。
「では、行こうか」
ゆっくりと階段をのぼるハロルドのあとをついて三階へ向かう。ハイレーナが三階に来ることはほとんどない。ハロルドの書斎と、納戸があるだけだ。
初めて父の書斎に足を踏み入れる。意外と小さな書斎は本と紙束に埋もれていた。中央に大きな机が一つ。奥の壁にはアーチ型の開口部があった。開口部の向こうは窓がないのか薄暗い。ハロルドが灯りを灯すとそこには、天井までの本棚がいくつも並び、ぎっしり本が詰まっていた。
「書庫?」
その間を縫うようにして進むと、一枚の重厚な扉が現れた。ハロルドは首から下げた鍵を鍵穴に差し込んだ。ガチャリ、と大きな音がして、扉が開く。目に入ったのは光。一歩足を踏み入れて気がついた。
「実験室!」
白い壁に大きな窓。中央に実験台。正面奥の棚に並んだ実験器具。小さな棚が並んだキャビネット。大ぶりの機械。
「お父様……これは?」
「うん、家でも仕事ができるように作ってもらった」
ハロルドは実験器具を取り出して、台に並べてゆく。
「いつの間に……?」
「イレーネが起き上がれなくなった頃かな」
一瞬ハロルドの手が止まり視線を宙に彷徨わせた。口角が少しだけ上がる。
「できるだけ側に居られるようにね」
そういえば、物心ついた時からお母様に『三階はお父様のお仕事の部屋だから、行っちゃダメよ』と言われていた。
さあ、と言われて実験台に近づいた。
台の上に乗せられたのは蝋引き布に包まれた赤い花びら。
「半乾燥のカルネア」
「これが……」
図鑑の絵でしか見たことのない花びらが目の前にある。思っていたよりも鮮やかな深紅。
「火の伝達物質。これを抽出して、インクの原料を作る」
そう宣言すると、ハロルドの雰囲気が一変した。花びらを一つ一つ丹念に拭き、乳鉢に入れすりつぶす。
ペースト状になったそれをガラス瓶に移し入れ、静かに酒精を注ぐ。瓶を湯煎にかけた。コンロの火を調節する。部屋にはこぽこぽと水音が静かに響く。しばらくすると、瓶の中の液体はカルネアと同じ真紅に染まった。しばらくして、鍋を火からおろし、瓶を取り出すと丁寧に漉す。沈殿物を取り除いた赤い液体を再び湯煎にかけ、濃縮する。三分の一ほどの量になった時、透明の液体を一雫垂らし、静かにかき混ぜた。
「セルマ液……?」
ハイレーナの呟きにハロルドが破顔する。
「よく覚えたね。そうセルマ液。安定剤だ」
苔に似た小さいキノコから抽出する液で、伝達物質を長期保存し、安定させるために加えると、昨日読んだばかりだ。
湯煎から取り出した瓶を台の上に置き粗熱を取る。出来上がった液体は自ら光を放つような赤。
「これが、伝達物質」
「そう。これに溶液を加えてインクにする。溶液も種類があるし、他の伝達物質と合わせるときは配合にも気を遣う。どうだい、面白かったかい?」
ハイレーナは無言で頷いた。その間も目は赤い液体から離せなかった。




