夏の終わり
「……まったく、お嬢はとんでもねえな」
トニスはクリップを外したりはめたりして、束ねた紙を逆さにして振る。針金は外れない。
「まいったな、こりゃ。どっから思いつくんだか」
ごめんなさい。私が思いついたわけじゃない。
ハイレーナは身を縮めた。
「針金で遊んでいただけなんです」
クリップをハロルドに渡し、ハイレーナに向き直ったトニスが諭すように話す。
「あのな。世紀の発明って、大きくて複雑なものばかりじゃねえんだ。ありそうでなかった物。それが世の中を変えることだってある。しかもこれは安価で作りやすい。針金の強度は考えなきゃならんが、形を作るのは簡単だ。特別な技術もいらねえ。その気になれば明日から大量に作れる」
そして、重い声で言った。
「いいか、お嬢。蜜蝋布と紙の話はしていいが、この紙留めと、馬蹄式の話は誰にもしちゃいけない」
「どうしてですか?」
「これは商品になるからだよ」
ハロルドはクリップから目を離して言った。
「なっちゃいけないの?」
ハイレーナはトニスとハロルドの顔をかわるがわる見た。
「いけなくはないさ。なり方が重要なんだ。お嬢は箱入りだから無防備で、世間知らず」
ハイレーナの頬がむっと膨らんだ。
「世の中には金儲けのためにはなんでもする奴がいる。お嬢の考えを横取りし、ろくに試作せずに作る。売れたら自分の手柄、失敗したら責任は考えた人のせい」
ハロルドも頷いた。
「それにね。本当に商品として売り出すためには、試作を繰り返す必要があるんだよ。この紙留め、強度も経年劣化も、怪我の可能性も試してからじゃないと商品にはならない」
「せっかく便利だと思って使って、指を怪我した、錆が出て書類がダメになったとかよ。がっかりだろうが。そういう欠陥品のせいで、見向きもされなくなった物が、たくさんあるんだ」
ハイレーナの視線は下がってゆく。そんな大事になるなんて考えていなかった。クリップなんて、ほんの手慰みだったのに。すっかり落ち込んだハイレーナの背中をハロルドがぽんぽんと叩く。
「しかし、本当に僕のハイレーナは素晴らしい」
「とにかく、紙留めと馬蹄式の話はするな。俺が良いと言うまで見せるな。で、この二つは俺が預かる」
「……はい」
トニスは書き殴った紙をまとめて、ハイレーナのクリップで留めた。
迎えの馬車までトニスを送ってゆく。
「マーサ、今夜もうまかったぞ」
マーサを一言労ってからハイレーナの方を向いた。
「お嬢。この件は俺に任せろ」
紙束をしまった鞄を叩いた。
「時々進捗を見せにくる。約束は守れ。いいな。ハロルド、また明日」
と言って馬車に乗り込んだ。
八月も終わりに近づいて、頬を撫でる風が爽やかになってきた。トニスの来訪の翌日、朝出かける前のハロルドに呼び止められて、一枚の紙に書かれた『読むべき本のリスト』なるものを渡された。
「お父様ったら……」
と言いながらも、リストから一冊探して机に運ぶ。
勉強するうちに、わかってきたことがある。王立研究所の研究は三種類。まずはウォード結晶に関するもの。
「これはお父様がやっているやつ」
もう一つはウォードを使った製品開発。
「こっちがトニスおじ様の専門」
そして残るは『回路』と『伝達物質』。
今日選んだのは『回路図解入門』
パッと開いて「わぁ」と声が出た。子供の頃に描いた回路図のような美しい図形が並んでいる。
「これが製品の命になるのね。ウォードの力を導き出すもの」
前書きはさっと読み飛ばして、回路の図形を一つずつ眺める。急いでノートを取り出して回路図を書き写した。
正午の鐘を聞いて、少し経ってから回廊へ向かった。
あの日、エルヴァの手紙を受け取ったマーサはいたく感動していた。細部までこだわった、芸術的な感想が書かれていたそうで「この方は素晴らしい教養をお持ちの方ですわね」とベタ褒めだった。
それ以来時折、「こんなに喜んでいただけるなんて、冥利に尽きますわ」と楽しそうに菓子を焼いては「エルヴァ様へ」カードを添えたスイーツを託される。
今朝も、受付台でエルヴァに許可証を提示しながら「マーサからお裾分けがございます」と囁くと、エルヴァに小声で耳打された。
「では後ほど。回廊の隅でお待ちいたします」
待ち合わせ場所に現れたエルヴァは「こちらへ」と言って迷路のような通路を抜けて行く。その先の扉の前で止まった。鍵を取り出して開ける。扉の先は小さな部屋だった。丸テーブルがあり、お茶を沸かすための小さなコンロと食器棚。窓が一つ。
「離宮だった頃の朝食部屋です。こういった小さな部屋がいくつかあるのですよ」
エルヴァはこの部屋が気に入って、昼食はここで取っているという。
「美味しいお菓子ですもの、お茶が必要ですわ」
と茶器を取り出しながら言った。
「次回からはここで」
と口角を上げた。
午後は書架を回って『伝達物質』の本を探すことにした。回路を引くには伝達物質から成分を抽出してインクを作らなくてはならない。リストにある本を探すうち、面白そうなタイトルが目について、引っ張り出して左手に持つ。
「あっ」
棚から目当ての本を引き抜いた瞬間、左手に積んでいた本の一冊が滑り落ちた。
「おっと」
艶やかなバリトンが聞こえた。ふわりとシトラスウッドの香りが立つ。ハイレーナの本を床に落ちる寸前で受け止めたのは金髪の男。立ち上がって本を差し出した手は真っ白い手袋に包まれている。
「すみません、ありがとうございます」
目尻が少し下がった顔立ち。以前回廊で、衛兵とベトランタ語で話していた男だった。男が微笑むと目尻に皺が浮かび、雰囲気が柔らかくなる。
「重そうですね。持ちましょう」
少し強引にハイレーナの腕から本を奪い、すたすたと歩き出す。ハイレーナは慌ててその後を追った。
「あ、ありがとうございます」
書架をくるっと回りハイレーナの使っている机に近づいてゆく。
「ここで、よろしいですか?」
男の声は低く耳に心地よい。微かなベトランタ訛りが魅惑的だった。
「はい。ご親切にどうも」
男は机の上に置いた本へ目をやり、笑顔をハイレーナに向けた。
「難しいものを読んでおられるのですね」
その笑顔に魅入られたように、声が上ずった。
「あ、はい」
「頑張ってください」
それだけ言って、男は笑顔で去って行った。ハイレーナはその後ろ姿が見えなくなると、ふうっと息を吐いた。心臓が高鳴っていた。




