アップルパイ効果
マーサに持たされた大きな包みを揺らさないように気をつけながら図書館の門を潜った。衛兵詰所の空いた扉から中を覗き込む。昨日の年嵩の衛兵を見つけて声をかけた。
「昨晩は大変お世話をおかけしました。あの、これ皆さんで召し上がってくださいませ」
包みの中からマーサ特製のアップルパイを取り出す。受け取った衛兵は艶やかなパイを見て顔を綻ばせた。
「おお、これはお気遣いいただいて、すみませんね。いい香りだ、休憩時間にいただきます」
再度お礼を言って詰所を辞した。
館内に入って、受付台へ向かう。エルヴァの姿は見えず、中年の司書が座っている。許可証を差し出しながら尋ねかけた。
「エルヴァ・ロッシ司書はいらっしゃいますか?」
「ロッシは、午前中は書庫整理です。何か御用ですか?」
受け取った中年の受付司書の声は冷たい。
「昨日お世話になりましたので、お礼を申し上げたいと思いまして」
しかし許可証の名前を見た途端、目を見開いてハイレーナを見た。
「……そうですか。では、呼んでまいります。少々お待ちください」
声が柔らかくなり、口角だけが上がった愛想笑いを向けられた。しばらく待つと、奥の扉から先ほどの司書がエルヴァを伴って現れた。ハイレーナはエルヴァに歩み寄る。
「ロッシ司書。お仕事中にお呼び立てしてすみません」
「いえ」
横で受付台に戻った男性司書が、耳をすませているのを感じて、少しばかり声を大きくする。
「昨日は大変お手数をおかけしました。おかげさまで無事帰ることができました」
聞きたいのなら聞かせてあげましょう。
「父も、大変感謝しております。くれぐれもロッシ司書にお礼をと、言いつかってきましたの」
父の名がついて回るのなら、ちょっとだけ利用させてもらう。数歩動いて、エルヴァを受付台から離し、今度は小声で続けた。
「それで、お礼と言ってはなんですが、差し入れを。我が家の使用人が焼いたものです」
と言って、アップルパイの小さな包みを差し出す。ふわっと甘い香りが漂った。
「いただけません」
と言いながら、エルヴァの視線が、包みにしばらく止まったのに気づいた。
「そうですか。やはりいけませんか」
「はい、規則ですので」
見慣れた無表情だけれど、視線だけ、チラチラ包みのほうに向かう。
「では、お昼をご一緒してくださいませんか。司書の方も、お昼は召しあがりますでしょう?」
マーサから、受け取ってもらえなければ昼食に誘ってみろと言われている。
『昼食は仕事時間ではありませんから、もしかしたら受けていただけるかもしれません。でも無理強いはいけません』
「私は回廊のベンチにおりますから。では」と言って二階へ向かった。
正午の鐘から受付台の方を窺っていたけれど、エルヴァが出てくる気配はなかった。諦めて中庭へ出た時は、いつもよりだいぶ遅い時間だった。回廊の人影もまばらだ。お弁当を膝に広げ、サンドイッチにかぶりついた時、影がさした。
「お隣よろしいですか?」
エルヴァが立っていた。
「もちろんです」
思わず笑顔がこぼれ、横にずれて場所を空けた。隣へ座るとエルヴァは籠からキッシュを取り出し、食べ始める。
最後の一口を終えるのを見計らって、バスケットからアップルパイの包みを出し、一つをエルヴァに差し出す。
「お裾分けです」
やはり、口元が少しだけ緩んでいる。
「エルヴァさんは、甘いものがお好きなのですか?」
「……はい」
受け取ったエルヴァは包みを開いた。艶やかな幾重にも重なったリンゴが黄金色に光っている。吐息が漏れて、ゆっくりと口に運び、遠慮がちに一口齧った。
「美味しい!」
パッと頬が綻んで目が輝いた。
「……失礼いたしました」
エルヴァは一旦表情を整えるも、パイを齧るたび頬が緩む。
ハイレーナも嬉しくなって、「マーサのアップルパイは世界一なんです」とパイにかぶりついた。
エルヴァは最後の一口を目を閉じてゆっくり噛み締めた。名残惜しそうに飲み込んで、目を開くと包んでいた布を畳もうとして、手が止まった。
「この布は特殊なのですか?汚れていませんね」
「はい、これは布に蜜蝋を塗ったのですわ。少し硬いのですが、水や油を弾きます」
「蜜蝋ですか?それはまた……」
「簡単なのですよ。先日……」
ハイレーナは父とマーサ、三人で蜜蝋布と蜜蝋紙を作った様子を笑いを交えて語った。
「まぁ」
エルヴァは驚いた様子で聞いていた。
「ご自分でお作りになったのですか」
「はい!私が最初にやった方法より、父のやり方のほうが綺麗でしたけれど」
楽しくおしゃべりをして「戻らねば」というエルヴァと別れ、回廊を閲覧室に向かって回り込む。角の隅で衛兵が男と話し込んでいるのが目に入った。聞こえてくる言葉に耳を惹かれる。
ベトランタ語?
近づくと、こちらをチラリと見た衛兵に見覚えがあった。初日に許可証を見せた、ニキビ跡のある門衛。目があったので、軽く会釈する。こちらに背を向けていた金髪の男が振り返った。甘さを含んだ顔立ちで、ハイレーナを見るとふわりと笑った。ハイレーナも慌てて、会釈を返した。
閲覧室に戻り、続きを読み始める。浮かんだ疑問と覚えておきたい事を書き留める。メモはどんどん増えていくばかり。ページをめくった途端、一文が目に飛び込んできた。
『八九七年、ハロルド・デ・ヴァロネス博士がウォード結晶の均一化に成功した。これによりウォード製品は画期的な進化を遂げる』
お母様と結婚する前の年だ。お父様十九歳だ。男爵位をもらって、一代限りの貴族の印『デ』がついた。それでお母様と結婚が許されたんだ。十七歳の私は、二年後に、何者かになれるんだろうか。
ため息をついて窓の外を見た。
そろそろ帰ろうと本を書架に戻していると、エルヴァが音もなく近づいてきた。
「これを、パイを焼いてくださった方にお渡しいただけますか?」
手渡されたのは美しい封筒に入った手紙。宛名には『素晴らしい料理人様へ』と書かれていた。
「もちろんです」
笑って受け取った。




