卒業
「ハナ!これくらい常識ですよ!ここからここまでは丸暗記です!三十分で覚えてください」
様子を見に来ると約束していたアドリアンが現れたのは五月に入ってからだった。『十六時に迎えに行く』という短いメッセージを受け取って馬車溜まりに行くと、治安部の馬車の中からアドリアンが手招きした。
「ハナ、卒業試験でしょう?準備はどうですか?」
「う〜ん、頑張ってはいるけど、追試なしで合格したいのよね」
「やはり。ではいい所へ行きましょう」
馬車が止まったのは王城の目の前、王立図書館の入り口だった。
「二十時まで開いていますから。自習室もありますしね。さ、行きますよ」
気がつけば、鬼軍曹と化したアドリアンからしごかれていた。
「このレポートは理論に穴があります。ボリステレス領土分割の真の理由がごっそり抜けています。書き直しです」
「ちょっと、アドリアン、お仕事は大丈夫なの?私にかまってる場合じゃないんじゃないの?」
不敵な笑みを浮かべたアドリアンはこう言った。
「これも事件の後始末の一環です。被害者のケア。さあ、急いでください」
アメリアとシェルビニ公爵が婚約しているという話も聞いた。
「えっ!まさか」
「家同士の釣り合いも取れていますし、なかなか気も合うそうですよ。学院内の様子もアメリア嬢から報告を受けていたようで。卒業したら結婚するでしょう」
「結婚かぁ」
学院内の評判の悪さを考えたら、自分は結婚など無理だろう。考えに沈みそうになったハイレーナを、アドリアンが現実に引き戻す。
「呑気ですね。あと二十分しか残っていませんよ」
きっちり週二回、試験期間の直前までしごきは続いた。おかげでレポートは仕上がったし、試験準備もこれまでにないほど完璧だった。
「やっぱりハナは、記憶力にも、理解力にも優れていますよ。しかも今年はやる気がある。お世辞ではなく文官を狙えるかと」
「何言ってるの。無理でしょう、今からじゃ」
苦笑いしながら、頭に浮かんだのはこれからのこと。
どうやって、生きていこう。私がやりたいことはなに?
六月に入って試験期間が始まった。筆記試験、レポート、実技、そして最後の口頭試験。試験会場を出た時には、ぐったりと疲れていた。
「今まで、勉強を必死に頑張ったこと、なかったものね」
攻略対象のことだけ。落第しなければそれでよかった。初めて覚えた手応え。
廊下を歩く学院生たちの足取りは軽い。笑い声が上がり、開放感に満ちていた。
「あとはドレスの心配ですわ。先日デザイナーと……」
「ちゃんと申し込んだのか?」
「それより、卒業できるんだろうか、僕」
そんな姿をどこか他人事で眺め寮の自室へ向かった。部屋には荷物箱が一つぽつんと置いてあるだけ。クローゼットも、机の上も空っぽだった。試験期間が始まった頃から荷物の整理はしていた。週末を挟んで来週の月曜日に試験結果がわかれば、それで学院を去るつもりだった。
「やっと、終わる……」
担当教授にはその日に卒業証明だけもらって、卒業式にもパーティーにも出席しない旨を伝えてあった。
イレーネの日記だけを鞄に入れて、寮の部屋を出た。
ヴァロネス邸での穏やかな生活。
朝、庭の花を摘んで、イレーネの部屋に飾る。マーサと料理を作り、夕食の後はハロルドと紅茶を飲みながら話をする。その日の話題はハイレーナの絵になった。
「泡立て器以外は作らなかったのですか?」
「今の技術では、難しいことが多くてね」
ハロルドが絵を一枚ずつ眺めながら話す。
「ウォードは万能じゃない。エネルギーの塊であって、作用は伝達物質に依存する。火、風、水、光は伝達物質があるけれど、例えばほら」
冷蔵庫の絵を示した。
「冷気を作ることはできないんだ」
乾電池のようなイメージだったけれど、違うらしい。
「それに、泡立て器のように小さい物も作りにくい。結晶がそれなりの大きさだからね」
ふと浮かんだ疑問を口にしてみる。
「ウォードの結晶って、球体なのは何か理由があるのですか?四角ではダメなのですか?」
ハロルドはハイレーナに目を向けると、そのまま動きを止める。ハイレーナは慌てて付け加える。
「円形から回路を書き出すのって難しいと習いました。直方体だったら書き出しやすいかなって。例えば一センチくらいの薄さなら、小さなものも作りやすいんじゃないかって思って……」
「直方体とは面白い!確かに使いやすくなる。しかし……」
そうして、ぶつぶつ呟きながら部屋中を歩き始めた。
ハロルドの目つきがいつもと違う。柔和な表情が消え、口元まで引き締まっている。
どうしても乾電池のイメージが拭えない。
「大きな出力の時は二つ三つ組み合わせるとか?」
「なるほど!面白いし合理的だ。うん、これは……」
そしてまたぶつぶつ言いながらサロンの扉に向かって歩き出した。
「ハイレーナの発想は素晴らしい!」
扉のところで足を止め、振り返ってそれだけ言うと、階段を書斎に向かって駆け上って行った。
月曜日に試験の結果が張り出された。掲示板の前へ群がる生徒たちの後ろに並んで、ゆっくりと前へ進む。上位合格者の名前が見えた。アメリア様が学年四位。女性では一位だった。そして、合格者名簿の中に自分の名前を見つけて、安堵の吐息を漏らした。その足で担当教授の元へ向かい、卒業証明を受け取る。
「ハイレーナ・デ・ヴァロネス。卒業おめでとう。今回、頑張ったな。二十三位だったぞ」
「え?」
「いろいろあっただろうが、君もこの学院の立派な卒業生だ。その名に恥じないように振る舞いなさい」
「はい」
顔だけは殊勝に繕って返事をした。
寮の部屋へ戻り、小間使いに荷物箱を預け、六年間世話になった寮の部屋を後にした。




