前世の夢
イレーネの体調は少しずつ悪くなっていった。けれど、それ以上にハイレーナやマーサとのやりとり、ハロルドの様子が描かれていた。
⚪︎月⚪︎日
息切れがする。立っていられる時間が短い。あと何年生きられるかわからない。
ハイレーナは五歳。今日は散々散らかしたのでマーサに叱られ、お片づけも手伝った。
女神様、幸せな時間を五年もくださったことに感謝いたします。
ハロルドが心配するから、もう少し起きていたいけれど、もう……。
⚪︎月⚪︎日
ハイレーナがおやすみを言いにやってきて、そのまま絵本を持ってベッドに上がってきた。
「お母様がよく眠れるよう、読んであげます」と言って本を広げ、読んでくれる。私やハロルドを真似ているのか、たくさん抑揚をつけてくれる。そのうち布団の中に潜り込んで眠ってしまった。
あなたの温もりがこんなに愛しい。ハロルドが帰ってきて「羨ましい」というので三人で一緒に眠ることになった。
日付の間隔が空いていき、とうとう最後のページをめくった。弱々しい文字が並んでいる。
⚪︎月⚪︎日
久しぶりに広げる日記帳。これで最後になるかもしれない。
ハイレーナ。お父様と二人にしてごめんなさい。
でもどうか悲しまないでほしい。あなたが生まれてくれて、十一年も一緒に過ごせて母は本当に幸せでした。
学院に入ったらたくさん友達を作って、学んで、幸せをたくさん集めてね。
あなたは自由。きっとなんでもできる。負けず嫌いで、頑張り屋さん。
どうか思う存分生きて。 ――母より。
ぽたりと涙が落ちた。最後のページの文字を何度も撫でた。
このあと、お母様の意識は混濁して、二週間後に亡くなった。枕元につきっきりで過ごした。手を握って、話しかけて。お父様もマーサもいた。冷たくなっていく体……。
涙が日記帳を汚す前に閉じ、枕元へ置いた。自分を抱くようにして布団の中に潜り込む。
お母様……お母さま。
そう、呼びかけながら目を閉じた。
「いってらっしゃい、気をつけるのよ」
懐かしい声に意識が覚醒する。マンションの玄関。早朝。外は暗い。
華の足元には大きな荷物。毛糸の帽子に手袋。これから冬のスキー合宿に出かける。昨日まで、現地が大雪の荒れ模様で、出発が危ぶまれたけれど、今日は晴天。玄関まで荷物を運び終わって靴を履いたところだ。
「ホカロン持った?携帯は?充電器も持ったの?」
「ホカロンはママが十個パック入れたでしょ。心配性なんだから!みんな一緒だからなんとかなるって。いってきま〜す」
学校の前にはチャーターバスが三台。生徒たちが集まっている。仲良しグループの子達を見つけて駆け寄った。なんでもないことで騒いで笑い、近い席に陣取って現地まで五時間。ホテルの部屋割りも決まって早速ゲレンデに出た。華は運動神経がいい。スキーも小さい頃から通っていたので得意だ。ゲレンデはたんまりの柔らかい雪で滑りやすかった。吹雪いて大変だったというのが嘘のように晴れて、気持ちが良かった。夕食を食べ、温泉に浸かる。そのあとは友達と集まってパジャマトーク。恒例の乙女ゲームネタや、リアルの恋バナで盛り上がった。
翌日も雲ひとつなく晴れ渡って、気持ちの良い朝だった。
「よし、今日は上級コースに行くよ!」
「な〜に、華ったら一人でさ!」
「だって、今日は絶対最難関コース攻めるって決めてたんだもん!」
日差しが強く、みるみる気温が上がっていて、暑いくらいだった。午前中は上級コース。そして午後に最難関コースを滑り始めた。汗が目に染みると思った時、後ろから「雪崩だ!」という声を聞いた。
瞬間、足元の雪が揺らいで崩れ落ちた。滑り落ちる間に上からのしかかる雪。あっという間に視界は真っ白になり、声が出ない。苦しさと重さで押し潰される。
冷たい、重い、息が――できない――
お……かぁ……
さ…… ん……
飛び起きた。荒い息で肺から絞り出すように呼吸する。苦しい。頬にまざまざ残る雪の冷たさ。肩で息をしながら辺りを見回す。見慣れた寮の部屋。真っ暗な中に窓からの月明かり。眠る前に読んでいたお母様の日記が床に落ちていた。
ああ、思い出した。
あの日、小堀華は雪崩に巻き込まれて十六歳の短い一生を終えた。
なんだ、最初から帰るところなんてなかった。転移じゃない。
気がついてみれば、ハイレーナの記憶も今では自分のもののようになっている。華の記憶の方が、危ういくらい。
玄関で見送ってくれた母の姿。
『何かあったら、連絡しなさいよ』
「ごめん、もう、連絡できないよ……」
最後にもう一度言いたかった。
「ひとりにしてごめん、て……」
寂しかったんだな、ずっと。
ハイレーナも、そして華も。
幼いときに両親が離婚して、父親にはそれ以来会っていない。
「なんだ、いろいろシンクロしちゃってるじゃん」
わざと前世の蓮っ葉な言い方をしてみる。
「不思議。前世ではお母さんを置いて逝き、今世ではお母様に置いて逝かれて」
ベッドから窓の外に目をやった。手を組んで目を閉じた。
――女神様。もし、できるならお母さんに伝えてください。私元気で生きてるから。
今度こそ、こっちの世界で幸せになりたい。前の分まで長生きして楽しい人生を送りたい。
『華ちゃん、頑張ってね』
そう聞こえた気がした。
ベッドの脇に落ちていた日記を拾い上げ、革の表紙を撫でる。しっかりと自分の腕に抱きしめた。
お母様の願い通り、思う存分生きます。




