イレーネの日記
春休みが終わると、一気に学院の雰囲気が変わる。六月の進級試験・卒業試験に向けて緊張感が増す。
フレデリカとディミトリ、教授二人の姿が消えていて、さまざまな噂が流れていた。
夜、ベッドに入るとイレーネの日記を手に取る。
⚪︎月⚪︎日
ハロルドと結婚しました。私は何て幸せなんだろう。女神様、ありがとうございます。ハロルド、ありがとう。お父様に『爵位がない者には娘はやれぬ』と言われてからわずか二年。アルバード賞の受賞が決まって、プロポーズしてくれて。お父様もお母様も、泣いていらした。
⚪︎月⚪︎日
今日はハロルドと初めて喧嘩した。「赤ちゃんが欲しい」と言ったら、「だめだ、何かあったらどうする!」と。
ハロルドは子供なんていなくても、私がいればいいと言う。
でもね、ハロルド。白髪になるまであなたと一緒にいたいけれど、その夢は叶わない。だからせめて、あなたの側に私とあなたの子を残させてください。私がハロルドに残してあげられる唯一の家族。だけど、これは言えない。だって、貴方が悲しむ顔を見たくないもの。
⚪︎月⚪︎日
女神様。ありがとうございます。今日、主治医に「ご懐妊です」と言われた瞬間、世界が変わりました。諦めかけていたのに。ハロルドも飛び上がって喜んでくれた。でも、そのあとは心配そうに「母体にかかる負担は?」と聞いていた。
このお腹の中に「あなた」がいる。私とハロルドの子。「あなた」をこの世に送り出すまでは、絶対に死ねない。
ハロルドは過保護。階段もだめ、何も持っちゃだめ、動いちゃだめ。マーサに「妊婦は多少動いたほうがいいのです!」と怒られてた。本当に優しい旦那様。この子が少しでもハロルドの気質を引き継ぎますように。
⚪︎月⚪︎日
お腹が大きくて苦しい。ベッドから起き上がれない。どうか、できるなら一目、この子に会わせてください。声が聞きたい、この腕に抱きたい。お願い。
⚪︎月⚪︎日
目を開けた時「まだ生きてる」と思った。マーサが「女の子です」とあなたを胸に置いてくれた。柔らかくて温かいあなたの体。緑の目、愛くるしい顔。小さな手。女神様、感謝申し上げます。
ハロルドは泣き腫らした顔で笑っていて、恐々あなたを抱っこした。
私はなんと欲深いのでしょうか。会えただけでも奇跡なのに、あなたの成長が見たい。笑った顔が見たい。「お母様」と呼ぶ声が聞きたい。
⚪︎月⚪︎日
ハロルドは娘に夢中。眠っているハイレーナに触っては「小さな手だ、爪が全部揃っている」と感動する。本当にこの子は奇跡だ。ふわふわの髪が可愛い。マーサにあやされると夜泣きもせずにぐっすり眠る。わたしたち思いの優しい子。
⚪︎月⚪︎日
ハイレーナ一歳の誕生日。一年も一緒に過ごすことができて、母は幸せです。
この頃ハイレーナはずっとおしゃべりをしている。アルバード語とは違う不思議な言葉。流暢に話す。話しかけるとまるで答えているかのように。この子は私たちの言っていることが分かっているのかもしれない。
ハロルドは仕事へ行く前に何度もキスをして、嫌がられている。
日記から目を上げた。
「不思議な言葉……流暢に話す?」
まさか……。
⚪︎月⚪︎日
今日は記念日。「おかちゃま」と言った。絶対言った。いつものハイレーナ語の間に。
ハロルドが「おとしゃま」「おとしゃま」としつこくして、そっぽを向かれていた。
食いしん坊で口いっぱいに頬張って食べる。テーブルも服もたくさん汚して、マーサが苦笑いしている。
⚪︎月⚪︎日
このところ調子が良い。ハイレーナの顔を見ると元気が出てくるみたい。どんどん言葉が増えてきて、私たちに話すときはハイレーナ語は喋らない。この子は絵が上手。二歳とは思えない。おもちゃの絵を描いて一生懸命説明している。「木のお馬しゃん」耳の部分に棒がついていて、足の下がロッキングチェアみたいになっていて、鞍のところに座るおもちゃらしい。こんな物、どこで見たのだろう。
ハロルドが感心して、「すぐに作らせる」と。ちょっと娘に甘すぎるのではないでしょうか、ハロルド。どうやらトニスに絵を見せたらしく「ペトリおじさんが作ってくれるって。よかったなハイレーナ」とはしゃいでいた。トニスもハイレーナに甘い。
⚪︎月⚪︎日
三歳の誕生日。女神様の加護を受けてすくすく育っている。この子は明るくて、元気いっぱい。いつの間にか不思議な言葉を喋らなくなった。今ではアルバード語は大人顔負けの口達者。
今日はたくさん不思議な絵を描いてくれた。ハロルドに自分の描いた絵を説明している。絵が映る箱や風の出てくる機械。描いた絵と同じ絵をたくさん作ってくれる機械。この子の想像力は、もしかしたらハロルドやトニス以上なのではないかしら。
むくりと起き上がって窓際へ行く。寮の前の大きな木と校舎へ向かう石畳の道。ウォード灯に淡く照らされている。あの朝、目覚めた時の感覚とそれ以前の記憶。
水差しからコップに水を注いで、一息で飲む。冷えてしまった足先を、もう一度布団に滑り込ませた。枕を二つ積み上げて背もたれにし、再び日記を手に取った。




