母の部屋へ
深呼吸をして扉を開けた。真正面の窓から光が差し込んでいる。白くて大きなベッド。たくさんのクッション。
「ハイレーナ」
ベッドに半身を起こし、両手を広げて迎えてくれるお母様が見えた気がして、一歩部屋の中へ踏み入った。
「お母様の部屋へ行ってみないか」
ハロルドからそう言われたのは朝食の席だった。二階の一番奥の部屋。お母様が亡くなってから一度も足を踏み入れていない。
「今まで一度も入れなかった。ハイレーナと一緒なら……」
お父様も?
思った時には頷いていた。
ベッドとお揃いのキャビネットとライティングデスク。ぎっしり詰まった本棚にソファセット。衣装部屋へ続く扉。一歩ずつ確かめるように足を進める。ソファに座って刺繍をするお母様。衣装部屋から引っ張り出したドレスを着たハイレーナを見て、笑い転げるお母様の声。ベッドに潜り込んで読んでもらった本と、お母様のぬくもり。
思い出と同時に温かさで心が満たされていく。
お母様、お母様。
埃ひとつない部屋に花が飾られていた。
マーサ……。
やっと入ってきたハロルドがキャビネットの上に手を置いていた。その指先が小刻みに震えている。ハナは父のそばへ行くとその手に手を重ねた。
「開けてみましょう。お母様が大切にしていたもの、見たい」
引き出しの一番上には裁縫道具と刺繍糸。刺しかけのハンカチとレース編み。
次の引き出しにはたくさんの画用紙とパステル。
そして一番下の引き出しから出てきたのはたくさんの絵だった。覗き込んだハロルドが、声を上げた。
「ハイレーナの作品だ!こんなに取ってあったんだね」
絵は次から次へと出てきた。両脇の扉の中にも大量に残されていた。
一枚一枚広げて見る。
「おお、これは回路だね。覚えているかい?僕が描いた回路を気に入って、一生懸命真似をしたんだよ。小さい頃から絵が上手だったね。『大きくなったらおとしゃまとお仕事する』と言ってね」
荒い線で描かれた親子三人の絵。
「これは、二歳くらいだったかな。イレーネが『二歳でこんな絵が描けるなんて、この子は天才だ!』と言ってね。僕がこの絵を欲しいと言っても譲ってくれなくてね」
ハロルドが微笑んでいる。
なぜ忘れていたんだろう。あの頃はよくこの部屋で三人で笑っていた。お父様の回路、たくさんの絵。床に寝そべって描いて、汚してマーサに怒られて。
「これは、ハイレーナの発明品だ」
一枚渡された絵を見た瞬間、心臓が跳ねた。
拙いとはいえ、何が描かれているのかはっきり分かる。促されて裏を見ると大人の字で解説が書かれていた。
『氷を作る箱・食料を保管する冷たい箱。三歳』
『一人で走る馬車。四歳』
『くるくる回る泡立て器。四歳』
『動く絵を見る箱。五歳』
あれも、これもあちらの世界の物だ。動悸がする。
「ああ、これ、覚えてるかい?」
そこには荒いけれど、木馬の絵が描かれていた。
「ハイレーナが二歳くらいだったかなぁ。これが欲しいって言われて、説明してくれて」
部屋にあった木馬を思い出す。
「トニスが作ってくれたんだが、顔が怖いと泣き出してね。トニスが……」
……私は一体、何者なの?
思案はハロルドの声で途切れた。
「これは僕が持っていっても構わないかい?」
隣でトントンと紙束を揃えている。
「以前、この泡立て器を作ろうとしてね。当時のウォードでは大きすぎて上手くできなくてね」
驚いて父の顔を見る。
「それで高圧縮ウォードの開発を考えたんだ。懐かしいな」
よっこらせと立ち上がったハロルドは、キャビネットの上にどさりとまとめた絵を置いて、ライティングデスクに近づいていく。ハナは本棚に歩いていった。ぎっしり詰まった小説と歴史書。面白そうなものを抜き出してみる。体が弱かったお母様はよく本を読んでいらした。
下の段には絵本が何冊か。見覚えがある。
本棚から離れ、ベッドの蔦模様に触れて、お父様のそばに行く。ハロルドは窓に向かって立っていた。肩が震えている。手には革の手帳。ハナに気がついたハロルドは大きく鼻を啜って涙を拭いた。開いていた手帳を閉じる。
「イレーネの日記だ」
革表紙を撫でる。
「今はまだ、僕には読めない。いつか……」
ハロルドは日記からハナに目を移した。
「読むかい?」
「読みたい」
ハロルドはハナに日記を差し出した。
「他にも古いのがあるはずだ」
デスクの引き出しを探って同じ革表紙の日記帳を三冊見つけ出し、ハナの手に乗せた。
「また来よう。二人で一緒に」
「はい」
ハロルドがチェストの上の紙束を手に抱える。ハナはイレーネの日記を胸に抱いて扉へ向かった。扉の前でもう一度部屋を振り返った。
次は、お花を持ってこよう。
そう思いながら扉を閉めた。




