父の実像
遅めの夕食をとった後には、頭がぼうっとしてきた。
「お熱がありますね。休みましょう」
マーサに連れられてベッドに潜り込んだ。
「水差しを置いておきますね」
「ありがとう、マーサ」
その時、階段をどかどかとかけてくる足音が響いた。
部屋の扉が乱暴に開くと同時に「ハイレーナ!」と父の声がした。
「なんてことだ!傷は、大丈夫なのか?医者は?マーサ、医者を呼んでくれ、いや、研究所の医務科へ行こう」
「旦那様!」
ベッドへ駆け寄ったハロルドをマーサが留める。
「落ち着いてくださいまし。学院で手当を受けていらっしゃいますから」
「しかし!」
「いいですか。手と膝の傷は擦り傷。顔の腫れは数日で引きます」
「手と足にも怪我!」
「旦那様、お嬢様は安静が必要です。お静かに!」
マーサの一喝でハロルドは肩を落とした。マーサはハナの布団を首までかける。
「さあ、おやすみなさいまし」
ハナにだけわかるように片目を瞑り、ハロルドを押しながら灯を消して部屋を出ていった。
目が覚めた時はまだ、薄暗かった。
しんと静まり返った屋敷。たくさん夢を見た気がするのに何一つ思い出せない。寝返りを打とうとして、左側を枕に当てられないことに気がついた。
「痛ったぁ」
目が腫れて視界が狭い。唇も腫れぼったい。
「最悪」
浮かんでくるのは豹変したディミトリの顔。
「どうしてあんなの信用したんだろ」
信用したわけじゃない。でも、都合よかったんだ。ひとりじゃない、守られてる感じが心地よかった。
そしてフレデリカ。連行される時の心細そうな顔。
窓の外が少しずつ明るさを増してゆく。
「フレデリカから見たら、私は本当に悪女なんだろうな」
だからと言って、許せるわけじゃない。けれど。
入学した時から、攻略対象としか親しくしない。いつもべったり彼らに囲まれていて、他は無視。
「……ただ、帰りたかっただけ」
お母さんに会いたい。……お母様。
華とハイレーナの声が同時に浮かび上がった。気持ちが重なる。布団を抱き込んで顔を埋めた。
ディミトリもフレデリカもゲームには出てこなかった。
もしも、ここがゲームの世界じゃなかったら……。
ゆっくり体を起こし、水差しからコップに水を注ぐ。あたりはもう朝の光が入り始めていた。口に含んだ水が喉を滑り落ち、乾いた体を潤していく。空になったコップを置いて、窓の外へ目をやった。
「きれいに処置してありますよ。目にも異常はありませんし、顔の腫れはあと二日もあれば完全に引くでしょう」
研究所から連れてきたという女医の言葉に、マーサとハロルドがほっと肩の力を抜く。
「熱も下がっていますね。今日はこのまま安静にね」
女医は傷に塗り薬をつけ、ガーゼを当てると、にっこり微笑んで立ち上がった。
「ありがとうございました」
「わざわざ、すまなかったね」
「玄関までお送りしましょう」
マーサが女医の鞄を持ち、先導する。ハロルドもハナに視線を送ったけれど、何も言わずに出ていった。
「しかし、博士から緊急の呼び出しとは、驚きました」
「全く旦那様は……」
扉越しに聞こえた会話が耳に残った。
ヒロインはヒロインじゃなくて、悪役令嬢は助けに来てくれて、冷たい父親は……。
瞬きをして枕元の本を手に取った。
マーサが朝食を運んでくれて、起き上がる。扉の影からハロルドがのぞいているのが見えた。ハナを確認するとすぐに踵を返して階段を降りていった。
翌日、起き上がれるようになると、降りてきたハナの顔を見て安堵の表情を浮かべ、そのまま背を向けて出ていった。帰ってきたのは夜遅く。ハナが自室へ引き上げてからだった。
すっかり顔の腫れも引いて、切った唇の傷もあまり目立たなくなった頃、ハナは階下にハロルドの姿を見ると、背を向けようとする父に声をかけた。
「お父様、おはようございます。いってらっしゃいませ」
前のめりになった背中から頭だけこちらに向く。ハロルドの表情が、驚愕から泣き笑いに変わるのを見た。
「ハイレーナ……行ってくる」
それだけ言って、よろよろと玄関を出ていった。マーサが扉を閉め、ハナの傍に歩み寄る。微笑みながらハナの頬を撫でた。
「朝ごはんにいたしましょう」
「うん」
マーサに笑みを返して厨房に向かった。
「あのね、お父様と話をしようと思う。そう、お伝えしてくれる?」
「お喜びになります。お伝えいたします」
マーサが何度も頷いた。
ハナはサロンでハロルドと向かい合って座っていた。柔らかい光とは裏腹に、サロンには張り詰めた空気が漂っている。マーサが二人の前にお茶を置いて去ってから、かれこれ十分は経過していた。最後の一口を飲み干すと、やっと覚悟が決まった。
「お父様はなぜ、私を一人ぼっちにしたのですか」
ハロルドは虚をつかれたように椅子の背に張り付いた。それから深く息を吐いて背を丸めると頭を抱えた。
「イレーネが……去ってしまった時、僕の世界は真っ黒になった」
ハロルドから深い悲しみが漂ってくる。
「生きている意味がない。全てが手から抜け落ちて、何も残っていなかった」
父は覆っていた手のひらから少しだけ顔をあげ、ハナに視線を向けた。
「ただ、僕の可愛い娘のために、生きなければと、それだけ……」
ハナの中でハイレーナが動揺している。
あの日、お母様の亡骸に縋って、体を揺さぶって泣いたこと。床に崩れ落ちて動かないハロルド。
「正直、あの頃の記憶はあまりないんだ。ただ、イレーネのいないこの家が耐え難くて、研究所へ逃げた」
父が泣いている。
「……お父様、私は十一歳でした。私だって辛かった。私だって逃げたかった!」
「僕は……弱くて……卑怯で……少しでいい、立ち直る時間が欲しかった」
しばらく部屋には啜り泣きの声だけが残った。
「……どうして、学院に入れたの?なんの説明もなく、突然」
「イレーネの願いだった。イレーネにとって、学院は素晴らしい場所だった。だからぜひ、ハイレーナを学院に入れてほしいと、約束した」
――お母様?
『しっかりしろ!学院の手続きは済んだのか!』
頬を叩かれて一瞬だけ我にかえる。トニスがソファーに突っ伏したハロルドを引き起こす。
『約束だっただろうが!イレーネの願いだろうが!叶えろ。叶えてやれ!』
トニスの目も濡れていた。
『今は……?』
『あと二週間で十月だ。間に合わなくなるぞ』
よろよろと立ち上がった。
「手続きをして『学院へ入れ』と言って。ハイレーナのことは『これで安心だ』と思った。約束は守れた。娘は学院へ入る。イレーネがそうだったように、たくさんの友達に囲まれて寂しさも紛れる。楽しいことが増え、いろいろな体験をして大人に成長してゆくと」
……なんて勝手な。
握った拳がぶるぶると震えた。
「私、お父様のこと、許せません」
ハロルドが顔を上げる。傷ついた表情。寂しかった。一緒にいて欲しかった。
「私、ひとりぼっちでした。一番抱きしめてほしかった時に。捨てられたと思った。消えてしまいたいほど」
実際ハイレーナは姿を消して、華の陰に隠れたもの。
拳を解いて自分を抱きしめる。
「知っていましたか?お父様が帰っていらした日、私の誕生日でした。十二歳の」
「ああ……」
ハロルドが目を閉じ、首を前に落とす。俯いたまま頭を振った。
「僕は、なんてことを……」
ハナは目の前の父をじっと見た。思っていたより小柄で、頭でっかちで、肩を震わせて俯いている。お母様のことを『僕の妖精さん』と呼んでいた父。
……もういい。悲しいのはもうたくさん。
声を絞り出した。
「でも、もし、この先があるのなら……少し、お父様を知る努力をしたい……と思います」
ハロルドが顔を上げた。殴られたように、ぽかんと口を開け、ハナを見る。ゆっくりと唇が動き、息混じりの声が聞こえた。
「本当に?」
小さく、小さく頷く。
「ハイレーナ、これからがもしあるのなら、僕は誓う。ハイレーナの側にいる。何があってもハイレーナの味方でいる」
ハロルドが転げるようにこちらへ向かってきたと思った時には、ハナは父の腕の中にいた。ぎゅっと抱きしめられて、体が硬直する。けれど、父の『懐かしい』匂いに気がついた瞬間、体の力が抜けた。




