傷の手当て
「歩けますか?」
「大丈夫……痛いけど」
笑おうとして、頬がひきつれる。顔の左側が痺れて、腫れぼったい。
「医務室へ行きましょう。顔を冷やして、傷を洗わないと」
講堂の脇を抜けると、学院の風景が一変していた。
剣を下げた衛兵たちが歩き回り、治安部の馬車に何かを積み込んでいる。校舎や寮の入り口にも直立不動で二人の衛兵が立っている。庭の隅で様子をうかがっていた生徒たちは、衛兵に連れられて寮の方へ歩いて行った。
医務室に入り、濡れたハンカチを叩かれた頬に当てる。
「う……」
びりっとしみる。さっきより痛みが増している気がする。両膝の泥を洗浄し、手のひらの擦り傷も消毒してガーゼを当ててもらう。
「顔の腫れは二、三日続くかもしれません」
あちこちがヒリヒリ痛んで、情けない気持ちになった。
手当が終わると、カーテンの向こうで待っていたアドリアンが顔を出す。硬い表情の彼に微笑もうとして、腫れていない右側だけ口角をあげた。
「どうしてアドリアンがいるの?秘書官、首になったとか?」
アドリアンがベッドの脇の椅子に座り、苦笑を浮かべてハナの顔へ手を伸ばした。
「こんなに腫れて。すみません、来るのが遅くなりました」
顔には触れず手を下ろす。
「いろいろとありまして。今は秘書課から治安部へ出向中です」
「……これってもしかして、大事件なの?」
「そうですね。政治的には大きい、かもしれません」
「説明してくれる?」
「落ち着いたら、話せる限りは」
眉根を寄せたまま微笑むアドリアンに、もう一度片方だけで精一杯微笑んだ。
「よかった。アドリアンがクビになってなくて」
医務室を出る頃には、すっかり暗くなっていた。アドリアンに連れられて、会議室の一つへ入った。
ゆったりとソファーに腰掛けたシェルビニ公爵は、最初の印象より随分若い。
「傷はどうだ?痕が残らないと良いが」
世間話のように話が始まる。
「大丈夫です。少し痛みますが」
「うん。では少しだけ質問に答えてもらおうか。ディミトリとはいつ頃知り合った?」
「今年の初めです」
靴を拾ってくれたことから昼食の誘いまで、順を追って説明する。
「いかがわしい場所に誘われたことは?」
「いかがわしい、場所ですか?」
「ないならよろしい。今日はなぜあのようなことに?」
「卒業パーティのパートナーを断ったら、態度が急変して」
顛末を話しているうちに体が震え出した。
「ヴァロネス博士に関すること、研究所に関することを聞かれたりは?」
「ありません」
「わかった。私からは以上だ」
公爵は控えていた書記に合図を送ると、立ち上がった。アドリアンとハナもそれに従う。
「アドリアン、今日はこれでいいぞ。ハイレーナ嬢を送るなら馬車を使いなさい」
「ありがとうございます、閣下」
会議室を出ると寮へ向かった。
「屋敷へ送りましょう。明日から春休みでしょう?今夜は一人で寮にいないほうがいい」
荷物をまとめ馬車溜まりへ石畳を歩く。歩調はゆっくり。
「説明してくれる?」
「そうですね、ハナから手紙をもらって、ディミトリについて調べました」
調査を始めるとすぐに、彼の素行の悪さが露呈した。
「テグナ子爵の経営する高級カジノで、使い走りのような仕事をしていました。喧嘩っ早いので有名でしたよ」
「テグナって、フレデリカの?」
「ええ」
御者が開けてくれた馬車のステップに足をかける。膝の曲げ伸ばしが痛くて顔を顰めた。座席に落ち着くと、アドリアンがありったけのクッションをハナの背に置いてくれた。馬車が走り出す。
「やっぱり二人は繋がってたんだ」
「ハナを誘惑し、卒業パーティの時、公衆の面前で断罪する計画だったようです」
はぁと大きなため息が出た。
「エステヴァンが、あなたを引き合いに出した。自分が振られたのはハナのせい。それなのに、卒業パーティではウイレムと婚約した」
「エステヴァンを裏切った……」
「ええ。全く自分勝手な思い込みです」
ハナは頭も体も重く感じて、クッションに沈み込んだ。
「それだけで治安部は出てこないでしょう?」
「テグナのカジノの不正摘発です。ディミトリの件から、成り行きで治安部に協力しまして」
アドリアンが咳払いをして、目を逸らす。
「フレデリカとディミトリも関わっていました。学院内部にも数人」
アドリアンははっきりとは言わなかった。思っていた以上に事件が大きくて、想像がつかない。
夜道は馬車も少なく、早いスピードで貴族街を走り抜けていく。
「……フレデリカ、どうなるの?」
「捜査次第ですが、わかりません」
アドリアンが窓の外へ視線をやった。
「そろそろ着きますよ」
身を乗り出して窓の外を覗く。ヴァロネス邸の明かりが見えた。
「どうしよう!マーサになんて言おう」
アドリアンがふっと笑う。
「大丈夫です、先触れを出しておきましたから。今日はしっかり休んで。また様子を見に来ます」
馬車が門前に止まり、ゆっくりと降りた。マーサが走り出てくるのが見え、背中の緊張が解けていった。




