罠
三月に入ると少しずつ気温が上がり、日差しに温かみが増す。春休み直前の金曜日だった。昼食の終わりに教室まで送られながら、ディミトリが急に真面目な顔になって呼びかけた。
「ハナ先輩。放課後、もう一度会えますか?二人だけでお話ししたいことがあります」
むくりと警戒心が動く。ディミトリに鋭い視線を送った。
「そんなに警戒しないでください。もし、心配なら僕の友達を同席させます。講堂の裏の水路で待ってます」
それだけ言うと、返事も聞かずに走り去っていった。
「ちょっと、ディミトリ、行くとは言ってない!」
「待ってます!」
廊下の先から振り向いて叫び、ディミトリはあっという間に見えなくなった。何かを言おうとして開けた口を閉じ、大きく息を吐いた。
「あら、喧嘩ですの?新しい恋人とうまくいかないのかしら?」
教室に入ったところでフレデリカが待ち構えていた。無視をして自分の席へ向かう。
「まあ、あれほどの悪女、礼儀知らずですもの……」
嘲笑に耳を塞ぎたくなる。ディミトリが一緒の時だけが学院内で平和な時間だった。ディミトリのいない昼休みを想像しただけで、胃の辺りが痛くなる。友達という男の子も何度か挨拶を交わしたことがある。気の弱そうなひょろっとした子だった。
やっぱり、行くべき?……大丈夫だよね。
放課後の鐘が鳴ってもすぐには動き出せない。迷った末に二十分ほど遅れて約束の場所へ向かった。
ディミトリは水路を見ながらこちらに背を向けて立っていた。少し離れたところにひょろっとした友達がいる。
ハナの気配に気がつくと振り返って笑った。友人の男の子が静かに離れて行く。
「ハナ先輩!もう来ていただけないかと心配しました」
「遅くなりました。で、話って何?」
ディミトリがハナの前に跪く。
「ハナ先輩。僕を卒業パーティのパートナーに選んでくれませんか?」
差し出した手には宝石をあしらったピアス。
ハナはピアスに目をやって大きく息を吐くと、ディミトリを見下ろした。
「残念だけど、お断りするわ」
「なぜですか!」
ディミトリの目尻が下がって、懇願するような表情になる。
「卒業パーティに出るつもりはないの」
「そんな!」
立ち上がったディミトリが近づいてくる。
「僕、ずっと先輩のこと見てきました。去年まではすごい方々に囲まれていて、僕の出番なんかないと諦めていたんだ。それがやっと話せるようになって。ここで諦めろなんて、酷いこと言わないでください」
ハナは一歩後退る。
「私みたいに評判の悪い女にこれ以上関わったら、あなたのマイナスでしかないよ。あと三ヶ月で卒業なんだからもういいでしょ」
「だからです!」
ディミトリが一歩踏みだす。
「ハナ先輩が卒業してしまったら、もう二度と会えないかもしれない。せめて、学院生活の大切な思い出にしたいんです」
ディミトリがハナの腕を掴んだ。ピアスが地面に落ちる。
「それでも、パートナーにはなれません」
振り解こうと身を捩る。顔を伏せたディミトリから、怒りの感情が噴き上がってくるのが見えた。二の腕を締め上げる力がどんどん強くなる。
「痛い、ディミトリ、痛い!」
「……全く、いい気になりやがって」
ぐっと近づいたディミトリの表情が一変して、唇が歪み眉は吊り上がっている。
「それじゃこっちの計画がおじゃんなんだよ」
人が変わったような乱暴な口調に低い声。
「くそ!今までどんだけ我慢したと思ってんだ」
「ディミトリ、離して、離しなさい!」
「うるさい!」
腕が離れた、と思った瞬間左の頬に平手が飛んできた。火花が散って右へ飛ばされ、地面に膝と手のひらを打ちつけた。衝撃で視界がぼやける。
「ディミトリ!何してるのよ!」
フレデリカ!?なぜ?
「あんた馬鹿じゃないの!こんなことして、計画が台無しじゃないの!」
「何を!こいつが卒業パーティに出ないって言ったんだぞ!」
「だからって、やり方考えなさいよ。バレたらどうすんのよ!」
「バレるって、誰にですの?」
ハリのある声にゆっくりした話し方。
ア、アメリア様!?
「フレデリカ・ディ・テグナ。ディミトリ・ディ・エレブルー。あなたたちは一体何をしでかしたのです!」
「アメリア様……何で……」
「この高慢ちき女、正論ばかり吐きやがって、鬱陶しい」
「ディミトリ、やめなさい!」
ディミトリがアメリアの方へ走り出すのがぼんやり見えた。
「だめ!」
ディミトリの足を掴もうとした手が空を切る。
「いい加減になさいませ!あなたたちのやったことはわかっています!言い逃れはできませんよ!」
アメリアが大喝する。凛とした声、怯えの微塵も混ざらない声にディミトリの足が勢いを失った。
「な、なんだよ。お前に何ができる」
「私には、できませんわ。でも……」
「ディミトリ・ディ・エレブルーはお前だな」
突然、男の大喝が響いて、空気が振動する。うっすら目を開けると、濃紺の制服姿の男がディミトリの両腕を後ろ手に捕まえていた。瞬きを繰り返す。
「アメリア、無事か!全くあなたは、無茶をする」
「無茶ではありません。残念ながら間に合いませんでしたわ、ハイレーナ嬢が……」
早い足音が近づいてきて、ハナを抱き起こした。
「大丈夫ですか?ハナ」
この声、知ってる。
見上げるとアドリアンの黒い目と合った。
「殴られたのですか!」
ぐっと頭を支えられ、起き上がる。両膝が痛い。
「血が出ている」
アドリアンがハンカチで膝と手についた土を払ってくれた。濃紺の男性がディミトリの身柄を衛兵に渡して、近づいてくる。徽章が襟元を飾り肩から下がる飾緒の色が金色だ。
「ルシアン・ディ・シェルビニ公爵だ」
「治安部の長だよ」
アドリアンが補足する。
治安部隊?なぜ?
「まずは手当を受けたほうがいいな。その後、少し話を聞かせてもらおう。アドリアン、連れていってやれ」
「はい」
アドリアンに連れられて校舎に向かって歩き出すと、フレデリカの甲高い声が聞こえた。
「なんですか!私は関係ありません!」
振り返るとフレデリカは衛兵に両腕を掴まれていた。
シェルビニ公爵が柔らかい口調でフレデリカに声をかけている。
「テグナ子爵令嬢。あなたには、色々と聞きたいことがあるので。私に話をしてくれますね」
「あ、はい……」
シェルビニ公爵の笑顔に気押されたのか、おとなしく連行されていく。
「では、アメリア。ハイレーナ嬢、後ほど。アドリアン頼んだぞ」
公爵はアメリアに腕を差し出し、フレデリカの後ろを歩いて去って行った。




