ことの始まり
五年前のあの日、目覚めた時から何かがおかしかった。他人の体に入り込んだ感覚だった。
あれ?こんなに手も足も小さかったっけ?
ベッドから下ろした裸足の足が白い。まとわりつく白いレースのヒラヒラしたネグリジェ。足の裏に張り付く木の床の感覚も馴染まない。鏡の前へ歩いて行った。
映し出されたのは、緑の大きな目、紅茶色のウエーヴのかかった長い髪、小さな赤い唇。手を上げると鏡の中の少女も手を上げる。
唇が開いて名前が滑り出た。
「……ハイレーナ……ハイレーナ・デ・ヴァロネス……」
頭は霧がかかったようにはっきりしない。
「これが、私?」
振り返って部屋の中を確かめた。窓際の天蓋付きベッド。真鍮の取っ手のついたライティングデスク。猫足のクローゼット。見覚えのあるような、ないような。
「……転移?」
ふと頭の中に映像が浮かんだ。
画面?ゲーム?……間違いない。
鏡の中の少女の名は思い出せるのに、本当の自分の名前が思い出せない。
コンコン、コンコン。
その時、誰かが扉をノックした。
コンコン。女性の声が聞こえる。
「ハイレーナ嬢?起きていますか?」
恐る恐る扉に近づくと片目が覗くくらいに開ける。髪を結い上げ、ドレスを纏った中年女性が立っていた。眉間に皺が刻まれている。
「今起きたのですか?朝食に降りてこないから、心配しました。早く身支度をなさい。初日から遅刻しますよ」
初日?
女性は厳しい顔のまま、返事を待っている。
「……はい」
「よろしい。お急ぎなさい」
扉を閉めて、クローゼットへ向かう。中に制服らしいものがぶら下がっていた。引っ張り出して広げ、赤いリボンを見た時、映像の断片が浮かんだ。
「アルバード王立学院……運命の……婚約者?」
タイトル画面だ。ハイレーナ十二歳。入学式、学院の初日、クラスメート。あどけない少年の顔。
「行かなきゃ」
体が勝手に動いて、着替えていた。胸に新入生の赤いリボンを結ぶ。
机の上にあった鞄を手に、おっかなびっくり廊下へ出た。建物の外へ出ると石畳の道が続いていて、制服姿の子どもたちが歩いている。体の大きな上級生たちが笑いながら追い越していく。寮の周りの植栽と花に彩られた庭。はるか向こうに連なる校舎の窓。ぼんやり見つめていると、後ろから肩を叩かれた。
「あなた、お迷いになったの?」
そこに立っていたのはハイレーナと同じ赤いリボンを結んだ美少女。
アメリア……悪役令嬢アメリア!
アメリアは手にしていた扇子で左の校舎を指し示した。
「一年生の校舎はあちらですわ。お急ぎなさいませ」
そう言って早足で去っていった。
なんとか見つけた自分の教室へ入るなり、一番前の席を探した。
いた!
一人で座る小柄な後ろ姿。前後左右、空席が目立つ。そこだけぽっかり穴が空いたようだった。急ぎ足で近づいて隣の席へ腰掛けた。少年は目を丸くしてこちらを向いた。愛嬌のある顔立ち、長いまつ毛に縁取られた目。
「あの、僕の隣でよろしいのですか?」
「あ、どなたか来られる予定でしたか?」
「い、いえ。あの、僕は平民です……」
彼は学院唯一の平民。豪商ポロダンの末息子にして後継者。
「そんなの関係ないじゃないですか。私だって一代限りの男爵令嬢ですもの。仲良くしてくださると嬉しいわ」
手を差し出した。
「ハイレーナと申します」
「オットヴァルドです。よろしくお願いします」
おずおずと握られた手をしっかり握り直し、勢いよく振った。その時、言葉が勝手に滑り出た。
「ハナと呼んでくれたら嬉しいな」
そうだ、ハナ!私の名前、小堀……華。
「じゃあ、僕はオットーで」
そう言ったオットーは晴れやかな笑顔をハナに向けた。
「ハナ、にんじん嫌いなの?」
食堂でオットーと向かい合っていた。
「そんなことないけど」
「だって、いつもにんじん残ってるから」
オットーの言葉に驚いて自分の皿を見る。確かに輪切りのにんじんが二切れ端に寄せられていた。その途端、懐かしい声が聞こえた。
『にんじんは、お肌にいいのよ。好き嫌いしないで食べなさい』
お母さんの顔。
「ハナ?」
オットーの声に食堂のざわめきが戻ってくる。
「大丈夫。食べるわよ」
意を決してフォークを突き刺しにんじんを口に運んだ。口に入れた瞬間、甘みと苦みが広がって、顔を顰めた。
にんじん嫌い!
頭の中にハイレーナの声がこだました。
歴史の授業中だった。
「こうして発見されたウォードによって、我が国は大きく変わった。そして現代では……」
ウォード!
その途端、体が震え出した。寒気がして手からペンが転げ落ちる。
「大丈夫?真っ青だよ」
気がついたオットーが顔を近づけて囁いた。
これは私の感情じゃない。ハイレーナのだ。
「ヴァロネス博士の発明によって……」
「ヴァロネス博士ってハナのお父さんだよね」
「……!」
せり上がってくる吐き気を抑えようと口元を両手で押さえた。顔が歪む。頭の中で大きな声が響いた。
お父様なんて、大っ嫌い!
きつく目を閉じたまま、机に倒れ込んだ。
「君、具合が悪いなら、保健室へ行きなさい」
なんとか体を起こすと、心配そうなオットーに頷いてみせ、廊下に出た。
ハイレーナはウォードが嫌い。お父様も嫌い。
そう思った瞬間、頭の中でひときわ大きな声が鳴り響く。
私をひとりぼっちで放っておいたもの。お父様も、研究所も大嫌い!
耳を押さえて息を大きく吸った。ゆっくりと吐く。
「大丈夫。私は華。小堀華だから」
華とハイレーナの記憶の断片が流れ込んでくる。混乱して足が止まった。
こんなのもうやだ。帰りたい!
心配そうなお母さんの声。
『忘れ物は?携帯持ったの?ちゃんと毎日連絡よこしなさいよ』
苦しいほど胸が締め付けられ、思わずしゃがみ込んだ。
お母さんに会いたい、帰りたい。こんなところでひとりぼっち、イヤだ……。
涙が溢れ出て頬を伝う。しゃくりあげた。
「おや、大丈夫かい?……泣いているの?」
顔を上げると、端正な顔立ちの大人びた少年が覗き込んでいた。
「新入生だね。可愛いな」
この顔知ってる、名前は……エステヴァン!
「さあ、泣かないで。最初は辛いかもしれないけど、慣れるよ。楽しいこともいっぱいあるからね」
目を見開いてエステヴァンの瞳をじっと見つめた。
その夜、寮の部屋へ戻ると、机に向かってノートを広げた。
「攻略対象と出会うたびに記憶が戻る気がする」
ペンを取り出して大きく『アルバード王立学院〜運命の婚約者』と書く。
攻略対象は『オットー』『エステヴァン』『王子』……あと二人。
オットーは同級生だけど、他は一学年上。
「そうだ、闇堕ち!」
『みんな憂いを抱えていて、失敗すると闇堕ち。国が滅ぶ』
「クリア条件は、彼らの卒業式までに王子と婚約だよね」
『闇堕ちせずに全員仲良し』
書き終えてペンを放り出した。ノートの上を転がって、インクがシミを作った。
「ここが本当にゲームの世界なら、攻略成功すれば終わる……そしたら、帰れる?」
お母さんの顔。会いたい。
「エンディングまで、あと五年?……絶対成功させて、帰ってやる」
窓を見上げ、満月に向かって誓った。




