新しい道
遅刻ギリギリに走って教室へ向かう。ハナの口元から白い息が上がる。これなら誰の声も浴びずに済む。教室の入り口に近づくと、そこに立って誰かを待っているシルエットが目に飛び込んできた。
「オットー!」
「ハナ!大丈夫?」
自分に向けられる温かい笑顔に体の緊張が解ける。すぐ後ろの教授の姿が視界に入り、慌てて教室に飛び込んだ。
「後で話そう」
声を出さずにオットーが言い、隣同士の席につく。
授業は全く耳に入らなかった。お互い時々目を合わせて微笑む。やっと昼休みになって二人でいつもの場所へ向かった。
「今日はね、試験代わりのレポートを提出しにきたんだ。あと、担当教授と卒業試験の日程を詰める」
話しながらオットーが持ってきたお弁当を広げた。
「ハナの分もあるから遠慮なく食べて」
そこにはハナの好きなものばかりが並んでいた。
「少し、痩せたんじゃない?」
「うん、まあ……」
「ウイレムのこと……」
その先は言わせない。言葉を被せた。
「先月に会ったの。その時『結婚できない』って言われた。詳しい事情は聞かなかったけど。だから……」
「そうか、殿下が直接……」
その様子を見て、疑問が湧いた。
「オットーはもしかして知ってた?」
気まずそうに目をそらすオットー。
「おおよそは……。親父は情報通だから。確証はなかったけどね」
「……そう」
ハナは目の前の料理に手を伸ばした。黙々と口に運び噛み砕いて飲み込む。瓶からお茶を注いでもらって飲み干した。
「あのね、ウイレムに会った時、彼雰囲気が変わってた。王子様だったの。ウイレムじゃなくて。今更だけど、住む世界が違うって思った」
そう言って枝だけになった木々を見上げた。風が冷たい。襟巻きに首を埋める。
「ハナが、身分じゃなくて人として接してくれることに、みんな救われたんだよ」
オットーが少し寂しそうに言う。
それはね。華には身分制度が分からなかったからだよ。普通のクラスメートみたいな感覚だったんだ。
「これは、一つの提案なんだけど」
そう前置きして、オットーがハナの緑の目を覗き込んだ。
「辛いなら、一緒にラナスへ行かないか?」
「えっ?」
「アルバードを離れるのはどうかな。商会で働いてもいいし、しばらく休んでもいい。世界は広い。ウイレムのことも、ヴァロネス博士のことも少し距離を置いたら?父さんにも許可を取ってある」
アルバードを離れる?
見えないと思った道に、少しだけ光が差したような気がした。
「今すぐ返事しなくてもいいよ。でも僕が卒業するまでには返事をちょうだい」
ごくりと唾を飲み込んだ。
「さあ、行こうか。体が芯から冷えてしまう前に」
オットーは昼食を片付け始めた。
オットーは教授たちと話し合うというので、教室の前で別れた。講義の声は一つも耳に入らなかった。
どうしよう。願ってもない申し出なのに、飛び付けないのはどうして?
ゲームには隣国ラナスは出てこなかった。未知に怯えてるのか、それとも。
ゲームの舞台から離れるのが怖い。本当に帰れなくなりそう。
最後の授業、ダンスのクラスは講堂で行われる。クラスメイトが出ていくのを待って、最後に立ち上がる。実習用のハイヒールを持って扉を一歩出たところで誰かに足を引っ掛けられ、派手な音を立てて廊下にひっくり返った。荷物が散乱する。
笑い声が響き渡る。フレデリカとその取り巻き三人だった。
「あ〜ら、ごめんなさいませ。傷心のあまりボヤッとしてらっしゃるからですわね。お可哀想に」
「身分をわきまえない男爵令嬢の末路、惨めですわね」
上から見下ろし、扇子で口元を隠して笑っている。
床に転がったまま、周りを見回した。野次馬たちの口元に浮かぶ嘲笑。足元から震えが登ってくる。
怒りと屈辱で真っ赤になりながら、顔を上げてフレデリカを睨みつけた。
「な、なによ」
「身分があれば、なにしてもいいわけ?」
目の前に落ちていた靴を掴むと思い切りフレデリカに向かって投げつけた。靴はすんでのところでフレデリカの脇へそれた。後ろの生徒たちも避ける。その時後ろから早足の靴音が近づいてきた。
「なんの騒ぎですの!」
「アメリア様」
野次馬の生徒たちが左右に避ける。フレデリカも舌打ちしそうな表情で後退った。
「喪が明けたとはいえ、まだご葬儀からひと月も経っていませんのに、騒ぎを起こして。故人を悼む気持ちがないのですか」
「私たちはただ、国の一大事に、ふさわしい方が王太子妃に決まって、一安心だと話していただけですわ」
アメリアはハナを見ると手を差し出して助け起こした。制服を払い、上から下まで見回す。
「怪我はなさそうですね」
膝はさっきからじんじんと痛い。擦りむいてはいないけれど、強打したようだ。
「如何なる時も暴力はいけませんと申し上げましたでしょう?隙があるからつけ込まれるのですよ」
隙があろうとなかろうと、こういう連中はいじめをやめない。私の身分が低いから、なにをしても許されると思ってる。
怒りに染まった顔で床を睨みつけ、散乱した荷物を拾って俯いたまま歩き出す。
悔しい。泣くもんか。負けたくない。
膝の痛みに耐えながら、怒りに震えていた。
このままでいいの?私が悪いの?嫌だ、負け犬みたいに逃げたくない!
人気の少ない裏庭に出て、講堂へ向かう。意地だけで歩いていた。
「すみません!」
後ろから声がする。聞こえないふりをして、前へ進む。
「ハイレーナ様!待ってください!」
後ろから肘を掴まれた。仕方なく足を止め振り返る。そこには一学年下のリボンをつけた、男子生徒が立っていた。長いまつげに縁取られた茶色の目が、切なげに細められている。
――誰?
攻略対象と見紛うような美形。細身でスラリとしている。けれど、見覚えはない。
「これ、あなたの靴です」
彼が手に持っていたのはさっき投げつけた、ダンス用のハイヒール。
「あ、ありがとう」
靴を受け取ろうと手を出すも、相手は靴を掴んだまま離さない。
「ハイレーナ様。僕、見ていました。あんな酷いこと、許せません」
ハナは目を見開いて相手を注意深く観察する。
「みんな誤解しているんです。ハナ先輩は明るくて正直で優しいのに。さすがウイレム殿下のお眼鏡にかなう人なんだと憧れていました」
ハナ先輩?
「僕、ディミトリと言います。ディミトリ・ディ・エレブルーです。ハイレーナ様のお力になりたい。どうか、僕を頼ってください」
と言うと、頭を深々と下げた。
「靴、返してください」
「あ、すみません。ハナ先輩とお話するので緊張してしまって」
ディミトリは慌てた様子で靴を差し出した。ハナが受け取る間も視線はハナの目にじっと注がれていた。
「ありがとう。では」
「あ、待って!」
背を向けようとすると、再び腕を取られる。その手に一瞥をくれると表情を固くした。
「急いでいるので、これで」
ディミトリは急いで手を離した。今度こそ踵を返して講堂へ向かって歩き出す。
「また、お話しさせてください!」
背中からディミトリの声が聞こえた。




