最終話
「グリースに見せたいものがある。……本当はちょっと見せたくないけど」
そう言うモラダに誘われてアマーリヤの訓練を見学しにきたグリースは、柄でもない日傘を持たされて用意された椅子に腰を下ろした。
既に始まっていた訓練はトレーニングやランニングなどの基礎体力作りから次のステップに移って、実戦形式になっていた。
背の高いアマーリヤは髪色も相まってよく目立つ。
高い位置にある太陽の光がまるでアマーリヤだけを照らすみたいにきらめいている。
しかも双剣はアマーリヤだけだ。
アマーリヤは美しかった。
そして強かった。
豪快で豪胆で、動きは大きいのに素早くて、帯剣を嫌がっていたとは思えないほど圧倒的な強さを見せ付けてくれた。
思わず、潤んだ。
──よかった。
せっかくの才能が開花せずに枯れるようなことがあってはならない。やっと日の目を見たのだと思うと、彼のブツブツ繰り返し続けていた文句を知っているからこそ感慨深い。
なにより、楽しそうだ。
どんよりとした表情ではなく、明るく、溌剌としていて、一振り一振りが楽しくて堪らないといった顔。口元がどうしても緩んでしまうのだろう。思うように戦えるからか、無表情ではいられない笑みがアマーリヤには浮かんでいた。
どこかほっとした。
すると、一戦を終えたアマーリヤがグリースに気付いた。
すぐに剣を収めて、駆け寄ってくる。
双剣ゆえに、がちゃがちゃと音を立てた駆け足だった。
アマーリヤらしい。
「すげえだろ!」
と、ただ駆け込んでくるのかと思いきや、アマーリヤはそのままグリースを抱き上げて子どもにそうするようにぐるりと回った。
抱き上げられる瞬間、避けられたはずだった。
でもアマーリヤがなにをするのかわかった時点で、避けるのをやめた。
(しかたないな)
やらせたいように、やらせてやる。
太陽が眼下にある。
太陽を中心にぐるりと一回転した。
直視できないくらいの笑顔だ。
「見た!? すごいだろ!?」
すとん、と地面に足がつくと、途端に抱き締められる。
ぎゅうぎゅうに抱き締められて、苦しくなって、思わず背中をタップした。
素直に認めた。
「すごい。強いよ。かなり強かった。」
「だろ!? オレ、これから騎士団でめきめき強くなって、一生グリースの護衛やるから!」
騎士団で──。
グリースはその言葉を噛み締める。
そう騎士団で。
やや間があってから、グリースは頷いた。
そう、騎士団で。
そこへモラダが割って入ってくる。
「グリースから離れろ。俺の婚約者だ」
「えー、オレも婚約者だしぃ」
「それは……。その話は終わっただろ……!」
「え、いつ?」
はてな?の顔。
この、本心からのはてな? の顔はアマーリヤのいいところを凝縮している。
グリースは心から笑った。
こんなに笑った日が続くのは、生まれてからなかっただろう。
笑うって気持ちがいい気がする。
生きるのが楽しいって、思えてる気がする。
◇
昼食前に自室に戻ってきた。
これから少し時間を置いて、食堂での食事になるだろう。
その間にくつろいでいたほうがいい。
ソファに腰掛けてしばらくすると、ノックがあった。
遠慮がちな硬いノックの音に聞こえた。
ドアを引き開ける。
相手が誰かを認めた瞬間、グリースは唇を引き結んだ。
どうぞ、と言う前に人の目から逃れるように部屋に入ってきた人物は、挨拶もなしにいきなり箱を手渡してきて、言った。
「お願いがあるの」
その表情からして、あまり楽しそうな話ではなさそうだった。
◇◆
冬をひとりで乗り越えた。
用意された山小屋には納屋があり、兎と鶏と豚を何頭かずつ飼育している。冬は彼らを死なせないように、かなり気を張った。
あの日、グリースは王宮を出た。
部屋を訪れた王后から、モラダの婚約者を降りてほしいと懇願されたのだ。
箱にはありったけのお金と、
公爵家の娘への虐待行為による爵位剥奪と、
この山小屋の権利書と、
定期的な食料、日用品の差し入れが約束された契約書が入っていた。
その契約書には続きがあった。
これらを受け取る代わりに、
グリースは他国へ渡り、山小屋で静かに暮らすこと。
自分の居場所を誰にも知らせないこと。
二度と王国には戻ってこないこと。
これらが銘打ってあった。
アマーリヤは連れて行っても構わないと言われたのだが、グリースは断った。
彼の笑顔を思うと、この山奥に連れてくるのは得策ではない。彼の居場所を奪い、未来を潰す選択になってしまう。
まるで終身刑のように。
王后は跪く勢いでグリースの手を取った。
『息子を大切に思う気持ち、わかるわよね? 同じ女だからこそ強く感じるの。あなたは異質だわ。私たちと全然違う。別の生き物みたい。まるで──野生動物のように空気が張ってる。モラダもそこに惹かれたのだと思う。それはわかってる。他と違うから惹かれたの。ええ、わかってる。
近い未来、もしかしたら、いつかその異質さも認められるかもしれない。けれど、そのときまで息子が隣にいるのは耐えられない。異質はトラブルの元凶よ。その渦中に、私の息子がいるのは許せない。
でもあなたがあの子の見える範囲にいる限り、あの子はあなたに固執する。絶対に。わかるの。母親だもの。
あなたはいてはいけないの。
いなくなってほしいの。
その存在を消してほしい。
あの子には幸せになってほしいの。
だからお願い、出て行って。
今すぐに』
モラダの幸せ。
その先を思い描いたときに、グリースは自分の姿を描けなかった。モラダの隣にはグリースはいない。
グリースはもちろん、その金を受け取った。
それからは少しの時間もなかった。
与えられた全ての物品を積んで、既に用意されていた馬車に半ば押し込められて国を出た。
多分、受け取らずにはいられないようなネタを用意していたのだろう。
グリースが了承するまで、あの人はそのネタを出し続ける予定だったのだ。
存外、グリースが素直に出て行ったので安心しきっているだろう。
雪が溶けた。
もう随分と長いこと雪に囲まれていた気がする。
初めて山小屋で越えた冬だ。薪が思った以上に足りなくて肝を冷やしたから、またすぐに貯め始めなければならない。
乾燥させるのに時間がかかる。
グリースは手慣れた手付きで薪を割り続けた。
疲れたら、畑を耕し、飽きたら薪を割る。
単調で、穏やかで、常に灰色の世界。
人はいない。
もうずっと声を出していない。
吐く息さえグリースの色だ。
アマーリヤとモラダはどうなっただろう。
一向に昼食に姿を見せない自分を、どちらかが部屋まで迎えに来ただろう。アマーリヤなんぞ、ノックもせずに飛び込んできたかもしれなかった。モラダは律儀に何度もノックをして、ドアの前でグリースを待ち続けたかもしれなかった。
もぬけの殻の部屋を見て、彼らはなにを思っただろうか。
きっと今頃、この選択がよかったと思える功績をあげているに違いない。
子どももいるかも。
我が子に色とりどりの服を着させて、一緒に駆け回って遊んでやっている姿が見える。
我が子の誕生を、喜べる人たちだろうから。
金の種でもなく、恐喝の種でもなく、吐き出されただけの種でもなく、愛の塊をうんと抱きしめてやれる人たちだろうから、今頃は笑顔が溢れる温かな家できっと春を待っている。
灰色だけのグリースと、鮮やかなモラダたちは全く別の世界に思えた。
今、彼らを見たらその彩りに目が痛むに違いない。
寂しいか?
多分、寂しいのだろう。
ひとりの生活には、彼らはやはり存在が大きくなりすぎていた。
彼らがどうなっているかは想像だけにしておくのがよい。
実際に見てしまえば、あの日、自分が王国に残った場合の今をきっと想像する。
考えてもいいことは何もない。
グリースはひとり。
望まれずに産まれ、捨てられ、母を奪われ、自由を奪われ、未来を奪われ、ひとり森で朽ちるまでグリースは孤独に生きるしかない。
暇だなぁ。
なにをしようかなぁ。
よいしょ、と切ったばかりの薪を持ち上げようとする。
ふと、音が聞こえた。
遠くのほうで、なにか聞き慣れない音が。
動物とは違う。自然の音とは違う。
人が織り成す足音だ。
息を呑んで音のほうを見やった。
次第に近付いてくる音。
そして、色。
グリース以外の色。
痛いくらいの色。
彼から吐き出される色は、けして灰色には見えなかった。
寒いのか、鼻先と頬がほんの少し赤くなっている。
「グリース」
そうだった。こんな声だった。
忘れかけていた彼の声がぶわりと全身に走る。
声を上げようとして、喉が張り付いた。
喋り方を忘れてしまったみたいに、喉が動かない。
「どうして置いて行ったんだ。どうして去ったんだよ」
グリースは薪を落とした。
「なんで、なんでなにも言わずに……ッ! なんで!!」
夢か?
孤独が見せる幻か?
とうとう気でも触れたか。
違う。ささくれだった薪が滑った痛みが掌に残っている。夢ではない。
幻覚。狂ったのか、私は。
わからない。
現実なのか幻影なのかわからない。
声も姿もはっきりしすぎている。
なぜ、彼がここにいるのだ。
彼はこんなところにいる未来ではなかったはずだ。
どこまでも自由になれたはずなのに。
なんで──。
彼は止まることをしなかった。
感動の抱擁も、久方ぶりの挨拶もなしに、立ち止まらずに目前に来た彼は、とうとうそのままグリースの頬に手を添えてキスをした。
彼の涙に濡れた、塩辛いキスだった。
了




