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キスをした。
グリースにキスをした。
唇ではないにしろ、グリースに間違いなくキスをした。
執務室に戻ったモラダは、顔が燃え滾るように発熱するのを感じた。
デスクに突っ伏すと、拍動がやけに大きく聞こえる。
グリースにキスをした。
グリースに好きと伝えた。
胸がばくばくと膨張と伸縮を繰り返して破裂してしまいそうだ。
顔が熱い。
いや体が、むしろ唇が。
やりすぎた?
調子に乗りすぎたか?
いや、でも、だってあの俺を見上げてくる顔が──!
頭を抱えて地団駄踏んでしまう。
かわいいかわいいかわいいかわいい、あーもう!
「団長……?」
ふと気付くと、副団長が執務室内にいた。
目をぱちくり。
モラダは咳払いをして平静を装った。
「しばらくの間、午前と午後に1時間ずつ抜ける。フォローを頼む」
「え、ええ、わかりました。体調が悪いのでは? 顔が真っ赤ですが……」
「少し走ってきた」
「そうですか……。では書類お願いします」
机にどすんと書類が置かれる。
その山を見て、幾分か冷静になれた。
グリースのもとへ行くためにも、早めに仕事を進めなければならない。
ぺんを持ち、内容を読み、承認できるものにはサインを流れるように記し、突き返すものは別の山にわけていく。
ふと、グリースの瞳がフラッシュバックした。
キスをした直後の近すぎるところにいるグリースの瞳。
唇の感触。香り。
デスクに再度突っ伏す。
悶絶した。
◇◆
グリースが動けるようになるにつれ、訓練に付き合うモラダの胸中は複雑だった。
彼女は優秀な戦士に他ならなかった。
一手の攻撃で終わらず、防がれたら二手、三手と続く猛攻。
素早さ、死角を突く的確さ、急所を狙う精度、彼女は上級と言っていい。
これで男の体であったなら、騎士にスカウトしていたに違いなかった。女性の体でここまで戦えるとは。
どれほどの訓練を積んできたのか。
監獄には男しかいないはずだった。
収監されていた者の中には、グリースの体の3倍近い肉体を持つ者もいたはずだ。それを監視し、統制し、統率するためには、その男達の誰よりも強くならなければならない。
グリースはどれだけ歯を食いしばってきたのか。
どれだけ肺を酷使し、四肢を震わせ、唾液を垂れ流してきたのか。
急にグリースがトレーニングを中断する。
木陰になるほうによろよろと歩いて行っては四つん這いになって、荒い呼吸を繰り返した。
嗚咽が聞こえた。
吐いたのだ。
モラダは慌てて背中を擦りに行ってやった。
吐瀉物の匂いがする。
「もう今日は辞めておこう。無理はよくない」
「いや、まだいけます。元に戻さないと」
さらにもう一度吐いた。
華奢な背中を擦り、髪を避けてやった。
持っていた水袋でうがいをさせてやる。
短い礼を述べて水袋を返してきたあと、乱暴に手の甲で口を拭い、真っ白な顔で立ち上がった。
彼女はなにに追い立てられているのだろう。
もう監視する相手はいないのに、誰を見張るために体を鍛えるのか。
「まだ時間はある。体を戻すのはまだ時間を掛けて大丈夫だ」
「……いえ、いつ、どうなるかわかりませんから」
「俺が守るのに?」
グリースがちらりとモラダを見た。しかしすぐに目を逸らした。
「俺が守る。だから今日はもう辞めよう」
「あなたと結婚したら──」
グリースが腕立て伏せをしながら唐突に言った。
「私は社交界に出なければならない。あるいは他国との交流とか。パーティの出席とか、もてなしとか。そういうの、やりたくありません」
ない、とは言い切れない。
必ずあるだろう。
いつか、必ず。
「そういう世界について行けない。そういう世界で生きたくない。だから──」
「俺とは結婚できないと?」
「そうです」
グリースはもはや顔を見てくれなかった。
規則的な上下運動が次第に苦しくなってきたのかゆっくりになる。
もう崩れるか、そろそろかと思っても、彼女は体勢を崩さずに着実に回数を重ねていく。
だから彼女はひとりで生きていくために強くなろうとしているのだ。
もはや、アマーリヤさえ置いていくつもりなのかもしれない。騎士団で頭角を現しつつある彼を連れて行こうとはしないだろう。彼女はそういう人だ。
「ちょっと考えてみる」
「……なにを?」
「社交界に一切手出しさせなくて済む方法」
言うと、やっとグリースは腕立て伏せを辞めて、ぴたりと動きが止まった。
そして声を出して笑い転げた。
のたうち回るみたいにごろごろしながら笑って、細い首が日の光を浴びて眩しいくらいだった。
ひとしきり笑うと、グリースは地面に大の字になったまま空を見上げていた。
「なんでそういう発想になるのかなぁ」
「それ以外になにを考えるんだ。社交界が嫌なんだろ? いわゆる貴族ぽいやつ」
「まあ、そうですけど」
「それに『俺のことが嫌だ』って言われてないから」
言われて、初めてグリース自身も驚いたようだった。
「アマーリヤは専属護衛継続でいいし、社交界に一切出てこなくていいようにする。なんか考えてみる」
「そこまでしなくても──」
「やっぱりアマーリヤ専属護衛は考え直す。どうしても気に食わない」
またグリースは笑った。
地面に寝転んだまま、太陽を眩しそうに目を細めてしまう。
「アマーリヤは明るいから。それにしても結婚するの前提で話すのはやめてもらいたいですね」
「俺が嫌か?」
笑ってはくれたけど、答えてはくれなかった。
けれど腕立て伏せはもう始まらなかった。




