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傷痕は残った。
前髪さえ下ろしておけば目立たないが、額の傷はそこに一文字の爪痕を残している。次第に薄くなるだろう。歪な皮膚もきっと慣れていく。
グリースとアマーリヤは気にしていなかった。
むしろ気にしたのは互いの後頭部の傷跡だ。
「うわ、はげてる」
グリースがアマーリヤの髪を掻き上げると、そこには傷を縫うための剃毛のあと。傷口は塞がり、抜糸も済んではいるが、傷周辺からはもう毛髪は生えてこないといわれている。
「え、マジ? どんくらい?」
「こんくらい」
「でか! ショックすぎる! グリースのも見てやるよ。後ろ向いて」
座る位置を変えてアマーリヤがグリースの毛繕いをする。
「うわ! グリースもはげてる!」
「マジ? どんくらい?」
「こんくらい!」
「おでこの傷より衝撃的」
「あー、やってらんねぇー。もぉー、やってらんねぇよぉ」
ふたりは庭でピクニックをしていた。
薄い生地のカーペットを引いて、ランチボックスにたくさんの食料を詰めて日向の温もりを存分に感じている。
アマーリヤが四肢を投げ出して寝転んだ。
グリースは隣でグリルチキンを頬張る。
もう体を動かし始めてもいい頃だろう。(医務官からの許可は出ていないが)
「オレさぁ、休み今日までなんだよなぁ」
「明日から大変だねぇ。体力取り戻すの大変だと思う」
「やっぱ? そうだよなぁ。絶対きっついんだよなぁ。でもさ──」
ばっと音を立てて勢いよく起き上がる。
目をきらきら輝かせて詰め寄ってきた。
「なんか楽しみなんだよ。体力取り戻してさ、双剣の練習してさ、ばっこし相性よかったらすごくね!? いつでもあのときくらい強くやれるかもしれねぇって思ったら、訓練も悪くねえかもって思ってさ!」
「いいと思う」
「だろ!? 帯剣が2本になるの邪魔くせえけど、グリースの護衛ならそんくらい強くねえと!」
「確かに。私も体力取り戻すのに、かなり時間が掛かると思うし。その間よろしく」
「オレ、めっちゃ強くなるから! 治るまでっつうより、ずっと守る!」
どん、と胸を拳で叩いたアマーリヤ。
きらめく笑顔を見て、グリースは微笑みながらも僅かに目を伏せた。
アマーリヤの頭の中は騎士として生きていくことを決めたようだった。
彼は無意識かもしれない。
移住しようだとか、逃げようだとか、もうこんな場所嫌だとか、そういう発言がぱったりとなくなったことを自覚していないかもしれない。
それもいいだろう。
アマーリヤはもはや、友人といっていい。
友人が生きる目的を見つけたのなら、それを見守るべきだ。
彼が好きなように生きたらいい。
どこで、誰と、どんなふうに。
そこにグリースは積極的に口出しして関与すべきではない。
さて、ならば自分はどうするか。
ひとりで生きていくには、いささか毎日が賑やかすぎた。
静かな毎日に、いつか飽きてしまうのではないだろうか。
それとも、また静かな孤独に慣れるだろうか。
慣れなかったら、どうするのだろう。
「なんかグリース、最近元気なくね?」
「怪我人なもんで」
「それ関係ないっしょ」
「あるだろ普通に」
答えに納得がいかないのか、むー、と睨みつけるような目で観察される。
かと思えば、べろりと頬を舐められた。
ぎょっとすると、持っていた肉を奪われてしまう。
「ソースついてるぞー! いぇーい、肉もーらい!」
最後の1本を食べてしまうアマーリヤ。
(あいつ……)
それにしても避けられなかった。
だいぶ体が鈍っている。
これではいけない。
足の怪我は完治しているし、アマーリヤも訓練でいなくなってしまうし、明日からトレーニングを再開せねばならない。
まずは歩くことから。
◇
情けない。
グリースはほんの少し歩いただけで息が上がってしまった。
気持ちとしてはまだ歩きたい。
早く体力を元に戻さなければならないと心が焦っている。
別にもう監視しなければならない相手はいないのに、反乱を企てることを阻止して、従わせなければならない相手はもういないのに、それでも今までできていたことができない現状はあまりに耐え難かった。
しかし傷が悪化してもまた動けない日が延びてしまうし、どこまで続けていいのか判断がつかないというのもなかなか厄介である。
荒い呼吸で歩き続けること1時間。
王宮の庭の周りを何周かしていると、ふと、モラダが見えた。
なにをするでもなく、ぼんやりと立つモラダ。
明らかに誰かを待っている。十中八九、その相手はグリースだ。
マントを肩に掛けたモラダは、騎士とも王族とも取れる。高い教養を受けて育ったことが彼からは滲み出ていた。
立ち姿。表情。身に付けているもの。視線。威厳。
すべてグリースとは別世界だ。
グリースは引き返そうか迷ったが、先にモラダが気付いてしまった。
歩み寄ってくる。
モラダとはあの日以来、会っていない。
わざと傷付けたあの日から一度も。
(気まずい)
正直なところ、気まずい。
どう接するのがよいものか。
悩んだグリースは貴族よろしく杓子定規通りの挨拶をしようとして、止められた。
「まだ歩くのか」
問われた。
敢えてあの日の言葉に触れようとはしないとみた。
ならば、こちらから触れる必要もない。
「あと少し」
「傷に痛みはないのか」
「今のところは」
「少しでも痛み始めたらすぐに言ってくれ」
どうやら付いてくるらしい。
差し出された腕に手を添え、ふたりは歩き出した。
支えがあるだけで、だいぶ楽になる。
しばらくどちらも話さなかった。
沈黙を破ったのはモラダだ。
「今日はアマーリヤの訓練再開日だった」
「ええ。いかがでしたか」
「体力を取り戻すのに1か月は掛かるだろうが、あいつなら心配せずともできるだろう。双剣もまだ戸惑いはあるが、相性はよさそうだった。実力は飛躍的に上がると思う」
ふ、と笑った。
アマーリヤならしばらくは双剣と体力つくりに夢中になるだろう。その間は自分も体力つくりに専念しよう。
「明日から当面の間、俺が君の訓練のサポートをする」
「え」
驚いて立ち止まる。
同時に振り仰ぐと、モラダは胸ポケットから取り出したハンカチでグリースの顔を拭いた。
塞がりつつある額の傷周辺を拭く手付きが優しいこと。
鼻の横や、目の周りを拭き終えたところで、至近距離でモラダが笑う。
モラダはいい香りがした。
なにを笑ってるんだと思っていると、眉尻を下げてさらに笑った。
「触っていいとは言ってないと、また叩き落とされるかと思ってた」
「あれは──……ごめんなさい」
素直に謝っておく。
事情を知らなかったとはいえ、観衆がある中で婚約者からあのような発言をされては、モラダにとってみれば面子が立たなかっただろう。
「いいんだ。午後も歩くか?」
「そうですね、少し」
「迎えに来る」
「でも」
婚約破棄してくれと頼んだのに?
あんなに傷付ける言葉を投げたのに?
どうしてここまでしてくれるのか、理解ができない。
この国での数少ない(下手したら唯一の)公爵令嬢とはいえ、グリースはあまりにも貴族には見合わない生き方をしてきた。教養なんてあったものではない。そのせいで貴族らしき感覚も備わっていない。
彼らからすれば、グリースなど生き恥に近いだろう。
なのに、なぜ彼はこんなにグリースに構うのか。
信じられないといった顔で見上げ続けていると、モラダは今度はハンカチでなく親指でグリースの頬を優しく撫でながら、またくしゃりと笑った。
「君が好きだ」
グリースは言葉に詰まった。
距離は変わらない。
目の前にモラダがいる。
笑う目が優しい。優しすぎる。
その想いはグリースには強すぎた。
「何度も考えたけど、どうしても諦められない」
「……なぜ……だって私は」
「わかってる。グリースがどんな産まれで、どんな生き方をしてきたのかはわかってる。それでもだ」
馬鹿な。
貴族とは掛け離れた自分の生き方を知っていたら、普通は距離を取るはずなのに。
なんで──そんな顔を汲み取ったのだろう。
ゆっくりとした動きだった。
撫でていた親指はそのままに、大きな手でグリースの頬を包んで、今までも近かったのにさらに近付いて、グリースの唇のすぐ横に口付けをした。
辛うじて唇には触れなかったけれど、ほとんどキスといっていい。
グリースは動けなかった。
優しい口付けを受け入れるしかなかった。
ほんの少しだけ離れたすぐそこにいるモラダが悪戯に笑う。
「弱っているときを狙うなんて、少しずるかったか?」
モラダはさらにグリースの頭を撫でた。
するりと落ちてきた手はグリースの手を握る。
「なんで、なんてわからない。俺も聞きたいくらいだ。なんで俺はこんなにグリースを好きなんだろうな」
グリースは初めて苦痛以外で胸の痛みを知った。




