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 アマーリヤの剣への苦手意識は根強かった。

 どうしても体を鍛えるほうに時間を割き、剣術はおろそかになってしまう。

 弓にも挑んだ。剣よりもよかったが、護衛ならばやはり剣だろう。だが、負ける。


 完全に行き詰まっている。

 どうすれば勝てるのかわからない。

 素早くなっているはず、腕力も筋力向上しているはず、体力も底無しになっているはずなのに、なぜ強くはなっていないのか。


 グリースに会いたい。


 あのざっくばらんな物言いで会話をして、意図せずテンポよく話題が変わって、まったく時間の経過を感じないあの存在に頼りたくなった。


 公爵家を訪ねると、約束もしていないのにグリースはすぐに出掛ける準備をしてくれた。

 迎えに行ったアマーリヤの服装が平民服だったから、すぐに察して平民服で出てきてくれた。この無言の優しさにアマーリヤは何度も知らず知らず救われている。


 公爵の姿はしばらく見ない。

 家族が体調不良になって治療に当たっていると聞いた。

 だからなのか、グリースは少し穏やかになったように思う。

 グリースが言った。


「つまんない。お酒飲もう。強いやつがいい」

「オレいい店知ってる! ちょっと今までと違うところだけど。いつもはひとりで行くんだけどよ、賑やかで、常連ばっかで最高」

「よし、そこに行こう」


 グリースの隣は落ち着く。


 話はいつも面白い。

 笑わない時間はないくらいに笑ってしまう。

 口の周りに汚れが付くのを気にせずにむっしゃむっしゃと食べるその令嬢らしからぬ豪快さも、何杯飲んでも顔色一つ変えない豪胆さも、自分と同じ感性も──。




 なにが起きたのかわからなかった。


 視界がぐるんと変わる。

 そのあとで猛烈な痛みが頭に走った。


 目の前にぱらぱらとグラスの破片が散ってもなお、まだなにがどうなったのかわからなかった。


 アマーリヤの反応は愚鈍だった。


 アマーリヤが目を白黒とさせている間に向かいに座っていたグリースが素早く動くのが見えた。

 使っていたフォークとナイフを両手に持ち、テーブルを飛び越えてくる。

 アマーリヤの背後にいる、割れたグラスの取っ手だけを持った男へグリースが反撃した。フォークが男の右目頭に突き刺さる。悲鳴。



 ──殴られた。

 なぜ?

 なんで──食事をしていただけなのに。



「公爵令嬢だ! 捕まえろ! 高く売れるぞぉ!!」


 醜い獣共の嘶き。

 グリースの舌打ち。


 アマーリヤの頭からの鮮血。


 それらの光景を傍観していると、グリースが回転蹴りをアマーリヤの顔面に叩き付けた。

 アマーリヤが吹っ飛ぶほどの威力だった。

 奇しくも出口に向かって。


「ぼけっとしてんじゃねえ! 騎士団に知らせろ!」


 グリースが吠える。

 アマーリヤは迷った。尻餅をつきながら考える。


 グリースか、出口か。


「行け!」


 グリースの手にはナイフとフォーク。

 そんなんじゃ勝てない。

 男達は17人いる。

 でも、今ここでアマーリヤが突進しても無理だ。


 ──丸腰だから。


 全員は倒せない。剣があれば──。

 常連客全員がグルだった。ここが根城だった。


「な、なんだぁ? 公爵令嬢なのに、やけに喧嘩強ぇぞ?」

「お、おい、人違いじゃねえの?」

「……いや、貴族名鑑に載ってる」


 ここで失敗したらふたりとも拐われる。そしたら誰にも知られずに死ぬだけだ。

 ひとりは助けを呼びに行くしかない。


「(◯◯◯◯!)」


 誰かが言った。

 はっとした。

 アマーリヤは駆け出した。

 出口に立ち塞がる屈強な男達を拳と体当たりと蹴りで薙ぎ払って外に飛び出した。


 これ以上ない速さで走った。

 歯の隙間から唾液が流れた。

 肺が破裂してしまいそうだ。

 何度も躓きそうになって、持ちこたえて、がむしゃらに走り続けた。


 泣いていた。


 くそ、クソ、くそくそ!

 なんでオレは弱いんだ。


 なんでこんなに──!


 アマーリヤは騎士団の会議室に転がるように飛び込んだ。

 謹慎中のアマーリヤ抜きで、モラダを筆頭に戦術会議が開かれていた。


 四つん這いになったまま、立ち上がれない。

 苦しい。


「グリースが、拐われた!!」


 それだけを叫ぶと、モラダが立ち上がった。

 行動しようとしたのではない、驚愕の反応だった。

 会議室にいっきに緊張が走る。

 誰かがはっと息を呑んだ。


「早く……! グリースが……っ!」


 呼吸が邪魔だ。

 うまく喋れない。ひいひいと喉が鳴って、言葉が詰まって出てこない。もう!

 汗さえ視界を邪魔する。

 乱暴に手の甲で拭うと、血だった。


 誰かがアマーリヤの頭にハンカチを当てようとしてくれた。

 驚いて振り払った。

 完全に興奮状態だ。

 情けなくて顔が歪む。


「アマーリヤ、なにがあったか落ち着いて話せ」


 モラダが震える声を隠して問うてくる。

 アマーリヤは必死に返した。


「グリースと、飲み屋で、オレが、先に、殴られて」

「常套手段だ。強い奴から排除する。それで?」

「騎士団に、知らせろって、グリースが」


 守られた。

 オレが守られた。


 くそ、くそ!

 涙なのか、血なのか。

 ぽたぽたと床に垂れる体液を殴り付ける。


「くそ!」

「嘆いても変わらない。みな武装しろ。グリースの捜索に当たる──」

「場所はわかってる、奴らが『教会跡地に連れて行け』って……! だから、早く!」

「……確かか? 騎士の面前で隠れ蓑を言うとは思えないが……」


 アマーリヤはじれったかった。

 跡地はひとつしかない。

 火事で焼け落ち、大量の煉瓦が朽ちて積み上がったままの教会だ。


 アマーリヤは目に付いた仲間の剣を引ったくるように奪い取った。


 オレが守る。

 オレが絶対に守る。


「俺はアマーリヤと共に行く! ひと班は付いてこい! 他は班ごとに分かれて捜索に当たれ! 馬車も見逃すな!」


 モラダの指揮が背後で聞こえた。

 アマーリヤは自分の馬に飛び乗った。


 絶対に守る。

 オレにはあの子しかいないんだから。


◇◆


 グリースは舌打ちした。

 顔に垂れてくる血が不愉快だ。

 拭おうにも、後ろ手で手首を縛られていてできない。


 後頭部を殴られた。

 くらくらするが、他に傷がないところを見るに、商品(からだ)に傷はつけたくないらしい。

 奇しくも囮作戦決行というところか。


 小さな部屋だ。

 ドアがひとつ。隣の部屋からの光が隙間から漏れて、ドアの形がわかる。

 床は板張り。動くと軋む。

 他にはなにもない。

 暗くて、夜ならばあるはずの月の明かりさえ一寸もなく、闇を和らげてはくれない。


 靴の底には、よかった、まだ短剣がある。

 さすがに令嬢が隠し武器を持っているとは思わなかったのか、杜撰な検査で終わったらしい。


 馬鹿め。

 身体検査は監獄において基本中の基本。

 追い詰められた奴は肛門の中にだって物を隠す。

 何度、男の直腸に指を挿れたことか。あの匂いったらない。


 グリースは一息ついて、親指を立てて床に置いた。

 そして可動域を超えて曲がるようにいっきに体重を乗せた。ここで臆病になって勢いが弱まると折れてくれない。問答無用で全体重を掛ける。

 鋭い痛み。

 叫びたくなる声を抑え、なんとか耐えた。


 親指は折れた。そうすると、手首の捕縛から逃れやすくなる。身をよじり、まずは片方、そして両手と自由を奪還した。

 靴底に隠した短剣を抜き出す。

 構えた。

 さらに親指を掴んで、元の位置に戻す。(果たして本当に元の位置なのかは定かではないが)


 どうする。

 ドアの向こうから話し声が聞こえてくる。


「獲物から店に来てくれるとは思わなかったなぁ」

「ラッキーだった」

「計画にはなかったが、臨時収入は大歓迎だよな」

「でも、連れを逃がしちまったぜ」

「こんなところ、バレやしないさ。咄嗟の誘拐だったから、船が用意できるまでの短時間しかいない。1時間後には文字通りもぬけの殻だ」


 なるほど計画性はなかったわけか。

 この声量では床の軋みは聞こえないかもしれない。しかし聞かれたら厄介だ。


 グリースは体勢を整えた。僅かな軋み。息を潜める。


 脱獄は静かに行うのがセオリーだ。

 目立てば、寄ってたかって羽交い締めにされて終わる。なるべく静かに、目立たぬように動かなければならない。

 しかしここでの問題は、収監されているのが何人いるのかわからないという点だ。もしもグリースだけなら、静かにことを運んでも早晩多勢無勢になる。


 店で何人の目を潰したか?

 7人、いや8人。それらはまともに動けないだろう。視力を奪われるのは心身ともに絶大なダメージを負う。

 店にはまだ大勢いた。

 この扉の向こうに残る全員を倒せる自信はない。


 誰かが咳込んだ。

 今だ。

 グリースは動いてドアのすぐ横に体を潜めた。

 これで奇襲ができる。


 じっとりと汗を掻いた。

 後頭部から滴る血が鬱陶しい。


 状況がわからない以上、自ら部屋を出るのは得策ではない。

 待つんだ。待つしかない。


 何秒、何分が経っただろう。

 男たちの他愛もない会話を聞き続けて長く、動きがあった。


「よぉし、そろそろ船も用意できただろ。無駄に過ごす必要はない。ご令嬢をお連れしろ」


 グリースは暗闇の中でさらに瞼を閉じ、深呼吸した。

 大丈夫。

 やれる。


 やれなかったからって、どうだって言うんだ?


 死ぬだけだ。

 公爵はがっくりするだろう。

 それだけだ。


 そうですよね、館長。


 なのに、ふたつの笑顔が頭をよぎった。


 あまりにも明るくてグリース自身まで照らしてくれそうな満面の笑顔と、すべてを包み込んで支えてくれそうな優しいくしゃりとした笑顔と。


 あのふたりの顔が確かに浮かんで泡のように弾けた。


 ドアが開く。

 瞼を押し上げた。

 ドア型にくり抜かれた光の中に浮かぶ影。


 短く息を吸った。

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