16
アマーリヤが寮へ帰ってきたのは、夜遅くだった。
もはや謹慎の身であるからか、門限を破ることになんら躊躇はなく、モラダと鉢合わせてもけろっとしている。
モラダは胸がちくりと痛んだ。
アマーリヤの目が赤い。
きっとグリースはアマーリヤが落ち着くまであのまま手を握ってやっていただろう。
ふたりは愛し合っている。
間違いない。
グリースは自分を愛してくれるだろうか。
いや──まず、ここは上司として指導せねばなるまい。
「門限は守れ。規則だ」
「……はい」
不躾に返事がある。
それだけで自室に戻ろうとするため、モラダが引き留めた。近くにある談話室にアマーリヤを促すと、渋々といった顔で付いてきた。
談話室は幸いにも誰もいなかった。
食堂みたいにテーブル椅子があるだけの小さな個室。
椅子に腰掛けると、アマーリヤも向かいに倣った。
「なんで殴ったんだ」
間を置かずに、努めて落ち着いた声音で問うた。
アマーリヤが唇にぐっと力を込めたのがわかった。
「言いたくない。オレの口が汚れる」
「理由がわからないと、お前が殴ったことだけでしか判断できない」
「だから今こうなってんじゃねえか。殴った。だから謹慎。今さら知ってどうするんですか」
「理由があるなら、原因を正す。言ってくれ。俺はお前が自分のためだけに暴力をふるうとは思っていない。」
アマーリヤは驚いたように目を見開いた。
まさか自分についてそう思っているとは、とでも考えているのだろうか。
上司として舐められたものである。
これでも平等に扱う点については、誰よりも慎重に行ってきた自負があった。
さらに追求した。
「グリースのため──違うか?」
言ってもアマーリヤは黙っていた。
眉間に深く皺を刻み、歯軋りをして、鬼のごとく唇を歪める。
しばらくして、アマーリヤは拳でテーブルを叩いた。
堪えていたものがいっきに噴き出したようだった。
「あいつら、グリースが緩いって言ったんだ!
股が緩い、頭が緩い、だから男を何人も作ってんだって……!
田舎から出てきたばっかりの世間知らずだから、すぐ男に靡くんだって言ったんだ! 話しかけられたらすぐに惚れるんだ、誰でもいいんだって……!
グリースはそんな奴じゃねえ!!」
さらにモラダの目を見て言った。
「あんたならわかるだろ……? グリースはそんな奴じゃない、そんな女じゃねえって……! あいつら、グリースのことなにも知らねえくせに、オレを笑い者にしてぇからって嘘ばっかり並べやがっ──」
「誰だ」
モラダが遮って問う。
遮られたことが不快だったのか、「あ?」とアマーリヤが問い返してきた。
モラダはゆっくりと繰り返してやった。
◇
「誰がそんな発言をしたんだ。殴った相手全員か。その一部か」
モラダの目を見て、アマーリヤはぞくりと悪寒が走った。
アマーリヤは怒っていた。文字通り、胸中は怒りに満ちて轟々と燃え盛り、火花を散らしていた。
グリースのことを1片も知らない人間達がからかって嗤って指差して、笑い者にしている。そのことに対して、非常に強い怒りを感じている。
だがモラダは違う。
喜怒哀楽でいえば確実に怒っているはずなのに、その怒りは驚くほど静かなものだった。
アマーリヤが抱く怒りが大爆発なのだとしたら、モラダの怒りは雷をたっぷり呑み込んだ暗雲が徐々に広がっていく不気味さがある。
暗く、重く、明滅しているのに、いつ落ちてくるのかわからない不気味さと不安。
目はぎらぎらと怒りを抑え込んでいる。
瞬きをした。雲の中に孕む明滅。
「どうやら俺の婚約者を侮辱する部下がいるらしい。これは王族として対処する」
「……お、王族として、って……どうやって」
「全員捕らえて拷問に掛ける。誰が何を言ったのか、わかるはずだ」
本気か?
──本気だ。
モラダの目は寸分も冗談を含まない真剣そのものだった。
これは下手な発言をすると本当に全員が拷問にかけられる。
(別に拷問されちまえばいいが、さすがにその場にいただけの奴はな……)
逆にアマーリヤが冷静になれた。
「……誰が言ったのかは、正直わからなかったんです。でもあの中の誰かが絶対に言いました。だから、全員……」
「いや、構わない。王族の婚約者に対する侮辱を誰も諌めなかったことすら罪に値する。よくやった。複数人であればあるほど、秘密はバレやすい。見てるがいい。すぐに諸悪の根源がわかる」
言いながら、モラダは立ち上がって部屋を出て行ってしまった。
取り残されたアマーリヤは、ついぞ言えなかった。
騎士団を辞める、と。
なんで殴ったんだと理由を聞かれるのではなく、殴るなんてどうかしていると副団長よろしく一方的に責められていたのだとしたら、きっとアマーリヤは、グリースの護衛として雇ってもらうことが決まったから騎士団は辞めると、素直に言っていただろう。
もしかして、モラダは悪い上司ではないのかもしれない。
◇◆
諸悪の根源はすぐにクビとなった。
尋問に掛けられたほとんどの団員が「あいつが言った。注意できなくてすみません」と、いの一番に謝ったらしかった。
他の者は減給処分。
張本人はさらに処分されようとしたが、国王陛下が騎士団のクビだけに留めておけと説得したおかげでモラダは納得せざるを得なかったようだ。
アマーリヤが想像していたよりも遥かに早く決着が付いて、王族という血族というか、地位の強さをまざまざと見せ付けられた気分だ。
きっとアマーリヤが真剣に彼らを問い詰めたとしても彼らはなにも言わなかっただろうし、むしろ真剣に怒るアマーリヤをにやにやと嗤って馬鹿にしたに違いなかった。
これが権力か──。
アマーリヤは肩を落とした。
護衛ってなんだろう。
権力もなく、実力もなく、ただグリースの傍にいるだけ。
きっと暴漢からは守ってやれるだろう。けど束になって掛かって来られたら?
あるいは、こんなふうに侮辱するだけの攻撃だったら?
今の時点で、アマーリヤは非常に無力である。
権力もない実力もない。
権力も実力も大事だ。
今はグリースを守ってやれない。
それを痛感した。
グリースを守りたい。
あの子は、自分に必要な人だ。大切な人。飾らずに物言いできる唯一の人。たったひとりの人。
グリースを守りたい。
そのためには体を鍛えないと。権力を手に入れられないなら、実力をつけないと。
アマーリヤは走り出した。訓練とは別に早朝に起床して、走り込んで、筋肉を痛めつけて、手のまめがハゲて中の赤い肉が見えるくらいに素振りをした。
けど、実戦形式の練習となると負けてしまう。
体の動きに剣が遅れを取る。でたらめな動きだ。
筋肉がついただけじゃ駄目だ。戦い方がなってない。
アマーリヤは悩んだ。
そして悩んでいる分、グリースへ会いに行く時間は減っていた。
◇◆
グリースは悩んでいた。
どうやらアマーリヤは訓練の必要性に目覚めたらしい。
ここしばらく会う機会がなかったので、あの日以来、何度も会いに来るモラダにとうとう事情を聞いた。
「見違えた。まるで別人だ。訓練場にいないときを見ることがないくらい、ずっと訓練場にいる」
「……なにかあったのでしょうか?」
「わからないが、思うところがあったのかもしれない。強くなりたい理由を見つけた可能性もある」
ほう?
強くなりたい理由。なんだろう。
本格的に騎士団を離脱する決心がついたということなのだろうか。ふたりで逃げるより、やりたいことを見つけたのか。
それもいいだろう。
苦しい人生は確定している。他の道があるなら、そっちを選ぶのは当然だ。この前は感情的になる出来事があったに違いなかった。
では、なにか激励を贈ってやらねばなるまい。
なにがいいだろうか。ハンカチは令嬢すぎてつまらん。なんだろう。グリースは悩んでいた。
「ところで」
モラダが話題を変えたので、グリースの意識も思考から戻ってきた。
庭に用意したテーブルセットには紅茶が置かれ、香りのいい湯気が立つ。グリースが一口飲むと、モラダもそれに倣った。
カップを戻しながら、モラダが訊ねた。
「俺については、なにか聞いてくれないのか」
思わず、え、と口ごもってしまった。
なにを言っているのか、理解するのに時間が掛かった。
驚くと、モラダが顔を赤くするのがわかる。
それでもモラダは黙らなかった。
「好きなものとか、嫌いなものとか、苦手なこととか、得意なこととか、子どもの頃はどんな子だったのかとか、気にならないか」
なんと返事をするのが正解か。
当たり障りのない回答。
不敬に当たらない回答。
困っていると、モラダがくしゃりと笑った。
「俺はグリースの全部が気になる。気になって仕方ないんだ」
その、照れくさそうにはにかむ笑顔にグリースは確かになにかを感じた。
なぜこの人は、グリースをこんなに好きなんだろう。




