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平和ボケしてやがる。
寝室に忍び込んだグリースに気付かず、公爵は高級生地の寝間着に包まれてぐーすかと寝息を立てていた。
くそが。
反吐がでる。
この男、ひいてはこの存在そのものを心の底から嫌悪している。
だからグリースは迷わなかったし、わざわざ声を掛ける優しさも、律儀さも持ち合わせていなかった。
錐のように鋭い切っ先を公爵の喉に突きつける。
喉仏を抉るような角度で徐々に差し入れ、貫通したらそのまま手前に引き、破れた皮膚から喉仏を抉り出してやるつもりだった。
残念ながら、刺した時点で公爵の目が覚めたのだが。
むしろ、この蝿でも止まりそうなスピードで刺してやったのも目覚めさせるための行為だ。想定内である。
公爵はグリースに気付き、悲鳴をあげようとしたが、その前にグリースが告げた。さらに深く刺す。
「好き勝手やってくれてんなぁ、おい」
公爵はじたばたと暴れようとしたが、喉に数センチの刃物が刺さっているだけで思うように体を動かせないでいる。
たった1箇所の穴。それが致命傷になるのだから、人間の体は脆すぎる。
「私の母が誰で、私がどこで育ったのかを忘れてるらしいが、思い出したいか?」
公爵はうーうーと唸った。
闇の中で公爵の顔が光る。脂汗だ。
人間なんてどいつもこいつも刺せば死ぬ。同じ構造なのに、なにを狭い世界でどっちが上だのこっちが上だの地位に執着しているのだろう。
「勝手に判断するな。いくらでも私には手段がある。あんたには、もはや直系は私しかいない。
この違いがわかるか?」
公爵は短く、う、う、と瞬きした。頷いたのだ。
他の人間と同じくらい弱いくせに強がる傀儡。
ひとたび刺せば、こうして威厳も執着も手放してしまうくらいに軟弱だ。
「私に従え。私に口出しするな。そして二度と私に構うな。」
う、う。
グリースは暇を伝えた。
「あんたは愛人の療養に付き添って旅行に出る。愛人の体調が全快するまで、私の前に現れるな。どんな話を聞いても首都に戻ってくることは許さない。」
う、う。
じっと怯える目を見て、静かに切っ先を引き抜いてやった。
小さな穴だから出血も少ない。
大袈裟に安堵する公爵が、本当に塵屑にしか見えなかった。
くそが。
吐き捨てて、その場をあとにした。
◇◆
モラダの婚約者を奪おうとしている。
アマーリヤに関する誤った噂は既に第三騎士団に留まらずどこまでも回っているようだった。
あんなに無名だったのに、アマーリヤが歩けばひそひそと囁かれるはめに陥っている。
(なんでオレが奪う側になってんだよ)
元はといえば、アマーリヤこそが真にグリースから選ばれた男なのだ。
奪おうとしているのはモラダであって、自分ではない。
「実力もねえくせに、女だけすげえの捕まえやがって」
「おめぇなんて選ばれるわけねえだろ」
「たかが男爵の四男が」
振り向いた。
何人かの団員がいて、誰が言ったのかもわからない。
舌打ちする。
弁明したって、誰も信じてくれない。
真実を知っているのは、グリースとアマーリヤ。そして皮肉にもモラダだけだ。
「グリース公女も気が多いな」
「世間知らずなだけだよ。少し話し掛けられただけであいつに絆されちまったんだろ」
「令嬢教育も最近終わったらしいからな」
「しかも短期間でな。付け焼き刃の女だよ」
もう一度振り返る。
どいつもこいつも知らぬ存ぜぬの顔でいて、なのににやにやと口元を醜く歪めている。
耐えろ。
ここで騒いだってどうしようもない。
アマーリヤは努めて深く深く息を吐いて向き直った。
そして許すに値しない暴言が再度聞こえてくる。
嘲笑。
もう構わない。
誰が言ったかわからないなら、全員殴ってしまえばいい。
◇◆
無事に公爵と愛人が旅行の準備を始めた。
愛人が服を買うために業者を呼んだらしく、屋敷は騒がしい。廊下を歩く愛人の横顔が見えたが、以前よりは息をしているように見えた。
そして誰を招いても文句を言われないため、グリースはアマーリヤと乗馬に興じている。
モラダとのあらましは説明した。
勝手に公爵が王族と約束を交わし、グリースにはなにも告げられていなかったことも、グリースには王族と結婚する意思がないことも。
「マジかよ。どうする? 王族と婚約だなんて、簡単には覆せないぜ」
「くそ。マジでくそ。計画が台無し」
こんなときは毒を吐き尽くし、体を動かすのが手っ取り早い。
トレーニングに移る。汗をかいて、息が上がる。
そして手合わせ。
違和感。
随分とアマーリヤの動きが鈍い気がする。
以前よりも随分と緩慢だ。体調が悪いのだろうか。
攻撃をしつつ、アマーリヤを眺める。
あの明るい瞳に影が落ちていた。
太陽を隠す分厚い雲。暗い雲から透過する光は弱々しい。
集中できないのか、なにもかもが疎かだ。
グリースがわざと速度を緩めると、アマーリヤもそれに倣う。
どんどん動きが緩む。
そしてとうとうふたりは腕をだらりとぶら下げて、向き合っているだけとなった。
グリースは待った。
アマーリヤは俯いている。
目を疑ったのは、アマーリヤの目から数滴涙が零れ落ちて、芝生を濡らしたからだ。
グリースが声を掛ける前に、アマーリヤは自分で涙を拭った。だが止まらないのか、髪を掻き上げるふりをして顔を隠してしまう。
そこでようやく気が付いた。
拳が傷だらけだった。
「……アマーリヤ」
拳の傷に触れる。
びくりとアマーリヤが反応した。
「あいつらが……!」
「わかった。涙を拭くのはハンカチにしよう。傷に染みる」
だが構わずにアマーリヤは涙を拭いた。
「やめなって──アマーリヤってば、ねえ」
その力強い腕を止めて、ハンカチで拭ってやるのは一苦労だった。
拭ってやると、アマーリヤはアマーリヤの涙を拭うグリースの手をその上から握った。
「ぜってぇあいつらが悪いのに!」
「わかったよ」
「なんでオレが謹慎なんだよ! あいつらお咎めなしだぞ!?」
「世の中、理不尽なことだらけだよ」
なんで──の吐露は涙と一緒に溢れてしまった。
怒りを抑え込むみたいに、アマーリヤはぎゅっと目を閉じて歯を食いしばっている。涙は瞼の隙間から滲み出て、ハンカチに染みていく。
握られた手が痛いくらいだった。
なにがあったのかはわからない。
聞かなくてもいいだろう。言いたければ、アマーリヤは聞かずとも言うはず。言わないということは言いたくないのだ。聞いてやらなくてもいい。
「アマーリヤ、どうしたい?」
問うと、アマーリヤは涙でいっぱいの瞳をやっとグリースに向けた。
「貧しい生活になると思う。追われる身になって、ひっそりと暮らしてても見つかって、逃げて、それでも捕まったら、あんたが私を拐かしたと罰せられて処刑されるかもしれない。」
仕事も簡単にはないだろう。
住処を見つけることさえ難しい。
それでも多分、私たちは、この世界で生きることに向いていない。
「私は今の地位があんたより上だとしても、あんたの生活の保障を約束できない。だから私からは──」
「一緒に行こう」
そう言うと思っていた。
グリースは心のどこかなどという儚い考えではなく、きっとアマーリヤなら、そう言うだろうと思っていた。
アマーリヤは間髪入れなかった。
グリースの手を握りながら、もう既にずっと近くにいるのに、またさらに詰め寄ってくる。
アマーリヤの瞳にグリースが映る。
「一緒に行こう」
頷く以外になにができるのか。
母に育てられた家の中での生活と、監獄で育つしかなかった閉鎖的な生活しかしてこなかったグリースは、もうこの社会に疲れていた。
わかった、と呟く。
これは男女の愛などという美しい感情が成せるやりとりではない。
生き方に疲れた同類。
しかも社会的にはかなり少数派の同類。
少ない時間でも心の形がぴったりくっついて離れないように変化してしまう似た思考。
それは、親友に近かった。




