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初めて公爵の愛人を見た。
グリースが自室の窓をふと見たときのことだった。
眼下に広がる庭を歩く一行に目が留まった。
すぐに公爵の愛人だとわかった。
侍女が日傘を差してやり、行く先に障害物が一切ないかを確かめ、ひっきりなしに顔色を窺っている。
ちらりと見えた愛人の顔は真っ白だ。
あのまま眠っているところを見て、これは死体であると言われても信じてしまうかもしれない。痩せすぎていて、頬骨が浮き出ている。むしろドレスから見える背骨さえ、皮を吸い付けて形がわかるほどだった。
手を引かれなければ歩けもしない。
口も開きっぱなし。
目は虚ろ。焦点が合っていない。
自分の子を失い、生気さえ取り戻せていないのだ。
彼女もまた、公爵にとっては利用できる駒でしかないはずだった。
その証拠に公爵が彼女のためにしてやっていることはほとんどない。公爵の頭にあるのは、自分の血が繋がっている人間による家門の維持とその発展、自分の面子を保つことと、自分の老後の贅沢な暮らしだけだ。
もはや子を成せず、血も繋がらない愛人を慮る理由は公爵にはない。
心から同情する。
彼女は充分すぎるほど地獄を味わっているだろう。
あの男に関わったばかりに。もしかしたら、公爵家の一員となれることに、かつては誇りがあったのかもしれない。栄華を味わい、贅沢を満喫し、悲観などひとつもなかったのかもしれない。
しかし我が子を失い、美しさも手放し、散歩をするのも心配されながらという現状は、いささかやりすぎだ。
一方で、グリースの母は強かった。
貧しい家に生まれながら、美しさと豊満さを武器にして金を稼ぎ、時に醜く臭い相手をしなければならず、辛くとも、悔しくとも、屈辱的であろうとも、それを必ず利用してやる狡猾さがあった。
そうでなくては、母は生きていけないとわかっていた。
取れるものは取る。
貰えるものは貰う。
だからグリースの真の父である公爵から口止め料と養育費を搾取し続けていた。──耐えかねた公爵によって命を取られたが。
果たして公爵が本当に父なのかは、今となってはわからないし、どうでもいい。
母も父と同じくグリースを金のネタにしか思っていなかったであろうが、育ててくれた母に恨みはないし、執着もしていない。
しかし、他人を駒としか思っていない公爵を奈落の底に突き落とすのは興味がある。
愛人がふとこちらを見上げようとした。
その前にグリースは窓を離れた。
◇◆
「殿下、(婚約の)挨拶は済ませましたか?」
と公爵が問うてくる。
屋敷を訪問したところ、グリースが出掛けているというので、その帰りを待つことにしたモラダの対応は公爵が請負ってくれたらしかった。
「ええ。(初対面の)挨拶はできました」
「そうですか、どうでした? 驚いていたでしょう?(婚約の話をしたら)」
「ええ。(自分が急に会いに行ったから)」
「まさか国王陛下が我が娘に目を留めてくださるとは思いもしませんでした。光栄に存じます」
「グリース公女様は非常に魅力ある女性です。ご謙遜なさらぬよう」
うんうん、と満足そうに頷く公爵。
メイドの入れた茶を飲んでいると、しばらくして階下が騒がしくなった。
「娘が帰ってきたようです。近頃は、首都に来られて嬉しいのか出掛けることが多くて。せっかく来ていただいているのにお待たせして申し訳ありません」
「いえ。先触れから、いささか暇も空けずに来訪しているきらいがありますから」
「殿下と一緒ならば安心です。ついている専属護衛が、あまり優秀ではないもので」
「……優秀ではないのに、専属を任せているのですか?」
カップを置いて問うと、公爵がこれ見よがしに肩を落とした。演技にも見えた。
「どうやら馬が合うといいますか。専属護衛としての力量は追い付いていないものの、やけに人柄を気に入ってしまったらしく、娘が護衛を変えようとしないのです。」
「それは難しい問題ですね。公女様の心の安寧を考えれば、すぐに人の交代をさせるのも酷ですから」
公爵は大仰に頷いた。
「娘の気持ちと安全面の両立は難しいものですな」
眉をハの字にして苦笑する公爵。
娘を案じる父親の顔に他ならないが、なんだか違和感を覚えた。
そこへノックがなされた。
グリースです、とも。
はっとしてモラダは立ち上がる。
「入りなさい」
公爵の一言にドアが引き開けられる。
グリースは相変わらず美しかった。
シンプルで動きやすそうなドレス。深い色が細いグリースの体をより引き締めて見せる。
「お待たせして申し訳ありません、殿下」
「いや。少し話をしたくて寄っただけだ。疲れているだろうから、バルコニーで風を感じながら休もう」
「光栄です」
モラダが差し出した手をグリースは迷いなく取った。
そうする以外に選択肢はないような動作だった。
気を利かせた公爵が部屋をあとにすると、広いバルコニーにはモラダとグリースのみになる。
静かなバルコニーだ。
「護衛はいないのか?」
「……ええ。屋敷の外での護衛をお願いしております。暇を伝えました」
「そうか。実は、今日はまた違うプレゼントを用意してきた」
「毎度いただいてばかりで──」
「俺が贈りたいんだ。気にしないでくれ。これはサポーターというものだ。訓練をし続けると足や腕に負担が掛かって痛みを感じるときがあるから、こうして動きの補助をしてもらう」
持参した自分が使っているものを服の上から着けてみせた。肘を曲げたり伸ばしたりする。
グリースは瞬きをしながら話を聞いてくれている。
こんな話は他の令嬢にはできない。
「これは騎士団員の中でも着用するものが多い、非常に優れものだ。俺も全種類持っている。通気性にも優れていて、装着したままでも気にならない。今回は肩、肘、膝、ふくらはぎ、足首用をそれぞれ新たに小さなサイズで作らせて──」
ぶはっと吹き出す声が聞こえてきた。
サポーターから顔を上げると、令嬢らしからぬ大きな口でグリースが大笑いをしているところだった。
腹を抱えて、眩しく笑う。
笑いながら、目尻に涙をためてグリースが問うた。
「私を騎士団にでも入れるおつもりですか」
「い、いや、そういうわけじゃ──」
「冗談です、こんなに体を動かせと言われるとは思わず」
「運動が好きなのかと思ってだな」
焦って言う。
グリースはまだ笑っている。
その笑顔が眩しくて目を離せなくなってしまう。
グリースは箱に入った新しいサポーターを受け取り、そのひとつの肘用を取って、着けてみせた。曲げたり、伸ばしたりしていて、その横顔はまだ可笑しそうに微笑んでいる。
「ええ、とても動かしやすいですね。大好きな運動がしやすそうです」
胸がきゅうきゅうとした。
そして、なぜ男たちがこぞって好きな女に贈り物をしたがるのか、わかった気がした。
また笑ってほしい。
そんな気にさせるのだ。




