第45話:英雄の、隣に
自制指導制度は、二ヶ月後に、法として成立した。
第四条は、削られた。順位は、つかなかった。代わりに入ったのは、たった一行だった。
『指導は、指導官が到達しうる者から、順に行う』
「順序じゃありません」
ノエルは、公示の写しを、胸に抱えて言った。
「距離です。近い人から行きます。だから、遠い人に届かせたければ、指導官を増やすしかありません。……これなら、後回しにされた人が出るたびに、国が困ります」
「性格が悪いな」
「クリーグ次席法官に、教わりました」
手順書は、六十七枚になった。
最初の写しが、南の三州へ送られたのは、法の成立から、九日後だった。次の月に、東へ。その次に、北へ。
指導官の第一号は、ノエル・オルグレンだった。試験は、三日かかった。実技の審査員席に、カイが座らされて、これは公正ではないのでは、と本人が三度、抗議した。
「先輩が採点するの、おかしくないですか」
「他に、できる奴がいない」
「それは、そうですけど」
「二年で、そうじゃなくする」
カイは、そう言った。
「三年で、俺が要らなくなる」
*
ダリオ・ヴェントは、南の療養院の畑にいた。
封印鎖の環は、手首に二つ、残っている。外れるのは、まだ先だ。それでも、鍬は振れた。
「執行官さん」
彼は、カイを見て、笑った。あの日、村で笑った顔と、同じだった。
「先月、村へ帰った。三日だけ」
「どうだった」
「孫が、走らずに、前を通った」ダリオは、鍬に、体重をかけた。「……村長が、泣いてな。面倒だった」
「そうか」
「守備隊は、居着いてる。冬までに、巣を潰すそうだ」ダリオは、畑を、見渡した。「俺は、こっちで、あと一年やる。……そのあと、指導官の試験を受ける」
カイは、彼を、見た。
「受かるか」
「六十七枚だろ」ダリオは、肩をすくめた。「三枚は、体で覚えてる」
*
軍務省は、荒れた。
バルカ・オルデンの審査は、年を越しても終わらなかった。職務停止のまま、彼は、一度も弁明をしなかった。再兵器化計画に関する書類は、七割が焼かれていた。だが、三割が、残った。
監督官ロゼ・ファルケは、軍務省を、辞めなかった。
「辞めるのですか、と何度も訊かれました」
局へ書類を届けに来た彼女は、こちらを見もせずに、言った。
「辞めません。三割の書類を読める者が、私しかおりません」
「……あんたが、片づけるのか」
「片づけるとは、申しません」ロゼは、書板を、閉じた。「合理は、まだ要ります。国家に金は限られ、英雄は千七百人います。誰かが数えなければ、あなた方の制度も、動きません」
「そうだな」
「執行官殿」
彼女は、扉の前で、一度だけ、足を止めた。
「私は、味方ではありません」
「知ってる」
「ですが、あの二樽は、二度と、通しません」
局長室で、ヴェルナーは、公示の写しを、一度だけ読んで、机に置いた。
「執行の件数が、減る」
「はい」
「予算も、減る」
「……はい」
「局が、小さくなるな」
ヴェルナーは、椅子に、深く座り直した。
「結構だ」
その一言だけだった。カイは、礼も言わずに、部屋を出た。この人は、たぶん、それでいい。
冬の入りの夕方、局の窓辺で、ノエルが、手順書の第五版を、めくっていた。
「先輩」
「何だ」
「一つ、まだ、分かってないことが、あるんです」
「言え」
「制度って、人を、救いますか」
カイは、窓の外を、見た。王都の屋根が、赤く染まっている。
「救わない」
「……あ、はい。そう思います」ノエルは、少し笑った。「じゃあ、私たちは、何を作ったんでしょう」
「時間だ」
カイは、言った。
「救うのは、隣に立つ人だ。あの円の中で、あいつを止めたのは、手順書じゃない。あいつ自身だ。俺は、隣に座ってただけだ」
「はい」
「だが、隣に立つ人は、間に合わないことがある。馬車で三日かかる。指導官が足りない。金が無い。……制度ってのは、その人が間に合うまでの間、対象を生かしておくための、器だ」
カイは、そこで、少しだけ、言葉を探した。
「十年前、俺は、三日、隣にいた。制度は無かった。だから、三日で、終わった」
ノエルは、手順書を、閉じた。
「……六十七枚は、三日を、何日にできますか」
「分からん」
カイは、言った。
「だが、三日よりは、長い」
*
その週の終わりに、カイは、王都を出た。
北へ、二日。
街道から外れた丘に、名の無い墓石が、一つある。十年前、暴走の跡地に、自分で立てた。字は、彫らなかった。彫れば、誰かが読む。誰かが読めば、いずれ掘り返される。そう思っていた。
墓石の前に、剣が、埋めてある。
カイは、しゃがんで、土を、少し、払った。柄頭の錆が、覗いた。
「……エルシャ」
風が、丘を、渡った。
「見つけた、と言うつもりは、ない」
カイは、そこに、座った。あの日、座らなかった場所に。
「他人に渡せた、とも、言えない。あいつは、自分で決めた。俺は、隣にいただけだ。……それでも、あんたが言った"ほんとうの止めかた"ってのは、たぶん、そういうことだったんだろう」
彼は、しばらく、黙っていた。
「三日、隣にいたのに、俺は、あんたが止まったあとの話を、一度もしなかった」
声が、低くなった。
「悪かった」
十年、言えなかった言葉だった。
斬ったことの詫びではなかった。斬る前の、三日の詫びだった。
*
王都へ戻ると、局の裏口に、ノエルが立っていた。
「先輩、遅いです」
「二日だと言った」
「三日です」
「……そうか」
ノエルは、手に、執行書類を持っていた。いつもの、胸に抱える所作で。
「新規事案です。王都西、第四区。元勇者が一人、暴走しかけてます」
「規模は」
「まだ小さいです。それと」ノエルは、書類を、めくった。「……その人、逃げないで、待ってるそうです。『指導官を呼んでくれ』って、自分で、通報してます」
カイは、少しの間、その書類を、見ていた。
通報の欄に、暴走しかけた本人の名が、書いてあった。そんな欄の使われ方を、この局は、想定していなかった。
「行くぞ」
「はい!」
二人は、並んで、歩き出した。
封印鎖は、腰にある。使う日も、まだ来る。だが、鎖より先に出せるものが、六十七枚、増えた。
英雄を、二度と、生まないために。
英雄が、二度と、止まれずに死なないために。
そして——止まった英雄の、隣に、誰かが立てるように。
その月、王都の街角に、一枚の刷り物が回り始めた。『英雄を、隣に置くな』——署名は、無かった。




