第44話:自分で、決めろ
渦の中には、音が、なかった。
外の悲鳴も、鐘も、届かない。白い光が、ゆっくりと、回っている。その中心で、ダリオ・ヴェントは、膝をついていた。
カイは、その隣に、座った。封印鎖は、円の外の石畳に、置いてきた。腰は、軽かった。十年ぶりの、軽さだった。
「ヴェント」
返事は、なかった。
「聞こえてなくていい。喋る」
カイは、渦を、見上げた。
「十年前に、俺が斬った女の話だ」
「名前は、エルシャっていう」
カイは、言った。
「魔王を倒した帰りに、あいつが、最初に壊れた。世界で、いちばん最初だ。あの頃は、名前もついてなかった。英雄性の暴走なんて言葉も、封印鎖も、執行局も、何も無かった」
渦が、少し、鳴った。
「腹の底が熱いって、あいつは言った。耳が遠いって、言った。……三日、言ってた。三日、俺は、聞いてた。聞いて、大丈夫だって言った。それだけだ」
白い光の中で、ダリオの指が、わずかに、動いた。
「四日目に、街が焼けかけて、俺が、斬った」
カイは、そこで、少し、黙った。渦の音が、二人の周りだけ、遠かった。
「十年、俺は、斬るしかなかったと思ってた。実際、そうだったんだろう。あれ以上待てば、全滅だった。……でもな」
声が、低くなった。
「三日、あったんだ」
「三日、俺は、あいつの隣にいた。いたのに、何もしなかった」
カイは、自分の掌を、見た。
「止めかたを知らなかったからじゃない。誰も知らなかったんだから、それは仕方ない。……そうじゃなくて、俺は、あいつが止まったあと、誰が引き受けるかを、考えなかった」
渦の音が、変わった。
「あいつは、パーティの剣士だった。剣を置いたら、あいつには、何もなかった。身寄りも、無かった。……止まれ、って言われても、止まったあとに立つ場所が、無かったんだ」
カイは、初めて、隣を見た。
「あんたと、同じだ」
ダリオの目が、動いた。
まだ、何も映していない。だが、動いた。
「俺は十年、あの三日を、どうすればよかったのか、考えてた。斬らずに済む剣の振り方を、考えてた。……違ったんだ。剣の話じゃなかった。あの三日に必要だったのは、あいつが止まったあとで、飯を食える場所だ」
*
渦の外で、ノエルが、円の縁に立っていた。
入ろうとして、シキに、腕をつかまれていた。
「だめです、オルグレンさん、そこから先、計器が振り切れてます」
「でも」
「……でも、あの」シキの声が、震えた。「数値、下がってます」
「え」
「渦の、出力です。三分前から、ずっと、少しずつ」
ノエルは、渦を、見た。
白い光の中に、二つの影が、並んで座っていた。
*
「ヴェント」
カイは、言った。
「今、村には守備隊が入ってる。三十人だ。半年は動かん。あんたが止まっても、村は死なない」
渦が、鳴った。
「療養院の畑は、人手が足りてない。腕が要る仕事だ。封印されたままでも、できる。……ノエルが、六十三枚目の後ろに、勝手に書いてた。あの娘は、そういう娘だ」
ダリオの喉が、鳴った。声にならない音が、漏れた。
「引き受け先は、決まってる」
カイは、言った。
「一番目は、済んでる」
白い光の回転が、遅くなった。
ダリオの背が、震えた。
「……止まれ、って」
掠れた声だった。
「言って、くれ」
カイは、首を、振った。
「言わない」
「頼む」
「言わない」
カイは、そこで、立ち上がった。
立ち上がって、その男を、見下ろした。
「自分で、決めろ」
渦が、止まった。
押さえ込まれたのではなかった。ねじ曲げられたのでも、逃がされたのでもなかった。中心から、しぼんだ。白い光が、腕の中へ、肩の中へ、皮膚の下へ、順に、戻っていく。最後に、指の先の光が、消えた。
ダリオ・ヴェントは、四つん這いになって、石畳に、額をつけた。息を、吐いていた。吐き切って、吸わずに、また、吐いた。
三度目に、彼は、吸った。
広場は、静まり返っていた。
誰も、声を、出さなかった。二千人が、いた。二千人が、黙っていた。
最初に音を立てたのは、ノエルだった。
円の中へ走り込んで、ダリオの前にしゃがみ、そして、両手で顔を覆って、泣いた。声を上げて泣いた。書類を胸に抱えることも、忘れていた。
それから、広場が、鳴った。
最初は、まばらだった。屋根の上の誰かが、叫んだ。桟敷の後ろで、女が、手を打った。数が、増えた。石畳の上の二千人が、一斉に、声を上げた。
カイは、その音の中に、立っていた。十年前、街を焼かずに済んだ夜も、誰も、拍手はしなかった。止めた、ということは、何も起きなかった、ということだ。何も起きなかったことに、人は、拍手をしない。
今日は、した。止まったところを、二千人が、見たからだ。
*
桟敷の中央で、軍務卿バルカ・オルデンが、立ち上がった。
その顔には、まだ、何もなかった。乾いたままだった。
彼が口を開く前に、東側の端から、黒い外套が、歩き出た。
「軍務卿」
ロゼ・ファルケの声は、広場に、よく通った。氷のように、平らだったからだ。
「監督官ロゼ・ファルケ、発言をお許しください」
「……許す必要がありますか」
「ありません。手続き上は、証言に、許可は要りません」
ロゼは、桟敷の階段を、上がった。
外套の内側から、二つのものを、出した。
一つは、納品簿の写し。
もう一つは、巻いた図面だった。
「中央広場の設営に用いられた土は、三十六樽。うち三十四樽が、正規の予算による発注です。残る二樽は」
彼女は、写しを、掲げた。
「軍務卿バルカ・オルデン閣下の、私費による発注です。納品先は、この円の内側。混和物は、賦活剤。分量は、飲用の四十分の一。……暴走の開始後にのみ効きます。止まりかけた力を、押し戻すために」
桟敷が、揺れた。
石畳の二千人の声が、消えていく。
「軍務卿」ロゼは、続けた。「予算に載らない支出は、国家の支出ではありません。個人の支出です。あなたは、国家の資産を守るために、この二樽を撒いたのではない」
彼女は、もう一つの、巻いた図面を、開いた。
古い観測図だった。右下に、名前が、書いてある。
『第0号 被験名:エルシャ』
「あなたの私室の、鍵のかかっていない棚にありました。焼かれたはずの記録の、唯一の複製です。……十年、あなたが手放さなかったものです」
バルカは、図を、見ていた。
「これは、国家の資産ですか」
ロゼは、言った。
「それとも、あなたの、十年ですか」
バルカ・オルデンは、答えなかった。答えられなかったのだ、とカイは思った。
この男は、悪意で英雄を消耗品と呼んだのではない。本当に、国家の合理で計算していた。十を守るために一を消耗する。それは、正しい計算のはずだった。だがその十年の底に、燃やせなかった一枚が、あった。自分が積み上げたものが、要らないものになるのが、耐えられなかった。
それは、合理ではない。ただの、人だ。
*
法制院の書記が、桟敷を、駆け下りていった。三日後、王国法制院は、軍務卿バルカ・オルデンの職権濫用および公務における私費の不正使用について、審査の開始を公示した。軍務省は、翌日、軍務卿の職務停止を、通達した。
十年、誰も届かなかった場所に、二樽の土と、一枚の図面が、届いた。封印鎖は、使わなかった。
十年ぶんの答えが「三日、あったんだ」の一言に落ちるまで、ずいぶん遠回りをしました。斬ったことの是非をいくら考えても出口はなくて、出口は斬る前の三日の方にありました。カイが十年止まっていたのは、間違った場所を探し続けていたからです。
次話で第3部の締めです。
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