第43話:渦は、彼のもの
正午の鐘が、鳴った。
中央広場は、埋まっていた。桟敷は当然として、その外の石畳にも、屋根の上にも、人がいた。噂は、三日で王都を回った。暴走した英雄を、封じずに止めてみせるらしい、と。
桟敷の中央に、軍務卿バルカ・オルデンが座っていた。
東側の端に、黒い外套が一つ、立っていた。
「始めます」
ノエルが、円の外から、告げた。声は、震えていなかった。三日で、この娘は、また、変わった。
円の中に、ダリオ・ヴェントが立った。上半身は、裸だった。腕の白い線を、隠さないためだった。
その三歩後ろに、カイが立った。
封印鎖は、腰にある。使わない。そう決めていた。
「ヴェント」
「……ああ」
「一番目は」
「止まったあと、誰が引き受けるかを、先に決めておく」
「決まってるか」
ダリオは、円の外を、見た。
ノエルがいた。シキがいた。村から来た守備隊の男が二人、帽子を脱いで立っていた。
「……決まってる」
「なら、上げろ」
*
ダリオが、息を、吐いた。
腕の白い線が、光った。皮膚の下から、外へ、ゆっくりと、押し出されてくる。
観衆が、どよめいた。
これは、暴走を「起こす」実演だった。止めるところを見せるには、起こさなければならない。誰も、そのことを、事前には考えていなかったらしい。
「二番目」
「息を、吐き切る……吸わない」
「三番目」
「視線を、下に」
ダリオの目が、石畳に、落ちた。
白い光が、腕から、肩へ、上がりかけて――止まった。
ノエルが、拳を、握った。
止まった。
あの麦畑で折れた日から、初めて。この男は、自分の力を、自分の手で、押し戻した。
観衆から、声が、上がりかけた。
そのとき、石畳が、光った。
円の内側の白い線に沿って、灰色の砂が、細かく、燃えた。
燃えた、というより、目覚めた。土に練り込まれた微量の賦活剤が、ダリオの押し戻した力の底に、下から、油を差した。
ダリオの体が、跳ねた。
「――っ、あ」
押し戻したはずの光が、倍になって、噴き出した。
「ダリオさん!」
「六十三枚目!」カイが叫んだ。「読め!」
「『押し戻された時は、押し戻された分だけ、また下げる。ゼロに戻さなくていい。一段だけ下げる』」
ノエルの声が、広場に、通った。
ダリオが、歯を食いしばった。光が、一段、下がった。
土が、また、光った。
二段、上がった。
「……くそ」ダリオが、笑った。泣きながら、笑った。「きりが、ないな」
三度目に、押し戻された時。
彼の目から、正気が、抜けた。
*
渦が、立った。白い光の柱が、円の中心から、天へ、噴き上がった。柵の木が、内側から順に、砕けていく。桟敷の観衆が、悲鳴を上げて、後ろへ雪崩れた。
「やっぱりだ!」
誰かが、叫んだ。
「化け物じゃないか! 封じろ! なんで封じない!」
「殺せ!」
カイは、その声を、聞いていた。聞きながら、渦を、見ていた。渦は、広がっていた。円を越え、柵を越え、桟敷の脚に、届きかけている。あと十を数える間に、人が死ぬ。
カイの左手が、腰の鎖の、三つ目の環にかかった。
解けば、間に合う。自分の封印を緩め、力を戻せば、この渦は、押さえられる。一瞬でいい。一瞬だけ、十年前の自分に戻れば。
――カイ。
耳の奥で、声がした。
――わたしを、ここで、止めて。
あの日、自分は、そうした。全力で、斬った。街は、焼けなかった。そして十年、自分は、止まっていた。
カイは、指を、離した。解けば、この渦は止まる。だが、止めるのは、俺だ。この男ではない。……それでは、あの麦畑と、同じだ。
「ノエル」
「はい!」
「桟敷を、東から順に、下げろ。柵の内側には、誰も入れるな」
「先輩は!」
「円に、入る」
*
だが、カイの足が、円に届く前に。
空気が、鳴った。渦の根元に、青い文字の輪が、三重に、走った。
噴き上がっていた光の柱が、途中で、折れた。押さえ込まれたのではない。ねじ曲げられて、天へ逃がされていた。広場の空に、白い光が、散った。花火のように。
悲鳴が、止んだ。柵の残骸の上に、長い外套の男が、立っていた。魔杖を、片手に。
「久しぶりだ、カイ」
ジルド・ヴェレンティが、笑った。慈悲とも狂気ともつかぬ、あの笑いだった。
「見物させてもらったよ」
ジルドは、渦の中で膝をついたダリオを、見下ろした。
「良い技術だ。手順に落とすのは、私には思いつかなかった。……感心している。本当だ」
「ジルド」
「だが、これは何だ?」
彼は、魔杖の先で、砕けた白い円を、指した。
「円を引いて、その中に立たせて、大勢の前で、止まってみせろと言う。止まれたら制度が通る。止まれなければ檻へ行く。……カイ、それは、救済か?」
カイは、答えなかった。
「私は、力を罪と呼ぶ世界を変えると言った。お前は、罪ではないと世界に認めさせる代わりに、罪を犯さない証明を、彼らにさせることにしたわけだ」ジルドの声は、静かだった。「首輪だよ、それは。よく出来た、六十三枚の、調教書だ」
「違う」
「何が違う」
「首輪は、俺が持たない」
カイは、言った。
「手順は、写せる。写した奴が、次の村で使う。俺がいなくても回るようにするのが、目的だ。……俺の手の中に留めておくものは、首輪だ。手放せるものは、道具だ」
ジルドは、しばらく、こちらを見ていた。
それから、初めて、笑いを消した。
「……エルシャは」
彼は、言った。
「エルシャは、円の中に立たされたら、止まれたと思うか」
カイの喉が、鳴った。
「あの日、彼女の周りに、円はなかった。桟敷もなかった。制度も、手順書も、何もなかった。あったのは、お前の剣と、私の術だけだ」ジルドは、魔杖を、肩に担いだ。「あの時に必要だったのは、六十三枚の紙ではない。もっと前の話だ。彼女が力を持たされる前の、話だ」
「……ジルド」
「お前は、英雄を飼い慣らす側に回った」
彼は、背を向けた。
「私は、そこへは行けない。行かない。……次に会うときは、たぶん、敵だ」
「待て」
「渦は返す」ジルドは、歩きながら、言った。「私が止めたのでは、意味がないのだろう。……見せてもらおう。彼のものだという、その渦を」
青い文字の輪が、消えた。
押さえられていた光が、地に、戻った。
*
渦は、また、立ち上がった。カイは、円の白い線を、越えた。
渦の中は、熱くなかった。ただ、音が、なかった。その中心に、ダリオが、膝をついていた。目は、開いている。何も、映していない。
カイは、封印鎖を、腰から外した。外して、石畳に、置いた。そして、その男の隣に、腰を、下ろした。
ジルドには、ここで一番痛いことを言わせました。円を引いて、大勢の前で、止まれたら通してやる——確かにそれは、罪を犯さない証明を本人にさせているだけかもしれません。彼が「もっと前の話だ」と言ったのは、たぶん正しい。この物語は、ジルドが正しい部分を持ったまま去っていくようにできています。だから彼とは、まだ終われません。
次話、第9アークの決着です。




