第42話:仕込み
「突きつければ、中止になる」
局長室で、ヴェルナーは、瓶を指で弾いた。灰色の砂が、硝子の中で、鳴った。
「土に薬が練り込まれていた。実演は延期。会場を検める。……そこまでは通る。だが、次はない」
「次が、無いんですか」ノエルが言った。
「軍務省が場所を出さん。金も出さん。年が明ければ、法制院の首席が代わる。あの案を覚えている者は、いなくなる」ヴェルナーは、瓶を、卓に置いた。「実演を中止にした側が、実演を怖がった側になる。……そういう話に、なる」
「じゃあ、どうしろと」
「決めるのは、私ではない」
ヴェルナーは、カイを見た。
「明日、円の中に入るのは、お前とあの男だ」
*
「やる」
カイは、そう言った。
「先輩」
「土は、そのままでいい」
「そのままって、押し戻されるんですよ! ダリオさんが止まりかけたところを、下から――」
「押し戻されたところから、もう一度、止まればいい」
ノエルの口が、開いたまま、止まった。
「あの土は、明日だけじゃない」カイは、言った。「あの村の井戸にも、ヴィトの流した六百本にも、同じものが混ざってる。押し戻されない場所で止まる手順なんて、書いても、どこにも送れない」
「……先輩」
「押し戻された時、どうするか。それを、今夜のうちに、書き足せ」
ノエルは、しばらく、こちらを見ていた。
それから、手順書を、机に叩きつけるように、置いた。
「六十三枚目です」
彼女は、羽根ペンを、掴んだ。
*
その頃、軍務省の書庫に、灯りが一つ、ついていた。
監督官ロゼ・ファルケは、支出簿を、繰っていた。
中央広場の設営費。桟敷の木材。柵。石畳の養生。土の入れ替え——三十六樽。
彼女の指が、その行で、止まった。三十六樽の土は、王都南の採土場から出ている。だが、採土場の納品簿には、三十四樽としか、記録がない。
差の二樽は、別の帳簿にあった。軍務卿の、私費だった。
ロゼは、支出簿を閉じ、そのまま、上階へ上がった。
執務室の扉を、叩かずに開けた。十二年の勤めで、初めてだった。
「監督官殿」
バルカ・オルデンは、机の向こうで、顔を上げた。驚いた様子は、なかった。
「二樽の話ですか」
「はい」
「早いですね」
「一つ、伺います」
ロゼは、扉の前に立ったまま、言った。
「あの二樽は、なぜ、私費なのですか」
「予算に載らないからです」
「なぜ、載らないのですか」
「載せる名目が、ないからです」バルカは、羽根ペンを置いた。「監督官殿。あなたが何を訊きたいのかは、分かっています。順に、答えましょう」
彼は、指を一本、立てた。
「あの制度が成れば、暴走した英雄は、封じる対象ではなく、戻す対象になります。戻る者が増えれば、回収する資産が減る。減れば、再兵器化計画は、要らないものになる」
二本目。
「私は、十年、それを積みました。礎は、焼かれました。頂は、あの男に否定されました。残っているのは、計画そのものの、必要性だけです」
三本目は、立たなかった。
「明日、あの男が円の中で止まれば、必要性が、消えます」
「軍務卿」
ロゼは、言った。
「私は、十二年、あなたの下で、英雄を数えてきました。一人を消耗して十人を守れるなら、そうすべきだと、私は今も思っています。それが、国家の合理です」
「そのとおりです」
「では、伺います」
彼女の声は、氷のままだった。
「あの二樽は、国家の損失を防ぐものですか。それとも、あなたの損失を防ぐものですか」
バルカは、答えなかった。
しばらくして、彼は、こう言った。
「同じことです」
「違います」
ロゼの声が、そこで初めて、わずかに、上がった。
「国家の損失なら、予算に載ります。載るから、私は、正当性を疑わずに執行できました。……載らないものは、国家の仕事ではありません。個人の仕事です」
「監督官殿」
「私は、個人の損失を防ぐために、英雄を消耗する任に、就いた覚えはありません」
*
書庫へ戻る途中、ロゼは、軍務卿の私室に隣接する保管棚の前を、通った。
鍵は、かかっていなかった。かける必要が、なかったのだろう。あの部屋に入る者は、十二年、彼女しかいなかった。棚の一段目に、巻いた図面が、一本、立てかけてあった。
開いた。観測図だった。焼いたはずの、記録の墓場のもの。その一枚だけの、複製。
図の右下に、名前が、書き添えてあった。
『第0号 被験名:エルシャ』
ロゼは、その図を、長く、見ていた。この表なら、あの英雄が一番上に来ますね、と、自分は言った。あれは、順位の話をしたつもりだった。だが、目の前の図の上では、彼女は、順位ではなかった。
起点だった。
十年前に一人を消耗して、そこから積み上げたものが、二樽の土になって、明日、また一人を押し戻す。十を守るための一ではなかった。一を守るための、十だった。
ロゼは、図を、巻き直した。そして、それを、外套の内側に、入れた。
*
夜明け前、局の裏口に、封のない書簡が、置かれていた。
差出人は、ない。
だが、字は、書板の中の書類と、同じだった。
『中央広場の円、内側の土。二樽分。軍務卿の私費による発注。納品簿の写しを添える。
当日、正午。桟敷の東側に、私が立つ。
証言の要否は、そちらで判断されたい。私は、要請があれば、応じる』
ノエルが、その紙を、両手で持った。
「……先輩。これ」
「ああ」
「ロゼさん、味方に、なったんでしょうか」
「なってない」
カイは、書簡を、受け取った。
「あの女は、合理に従ってるだけだ。……ただ、合理の勘定が、変わった」
東の空が、白み始めていた。
実演まで、あと六刻。
合理と保身は、外から見ると同じ形をしています。区別がつくのは、帳簿の上だけです。十を守るために一を切るなら、その一は予算に載る。載らない支出が出てきた時点で、それは国家の判断ではなく、誰かの都合になっている——ロゼが十二年かけて手に入れたのは、この一点の見分け方でした。
次話、正午。二千人の前で、あの土が何をするのかを見ることになります。




