第36話:法の言葉
王国法制院の審議室は、天井が高く、寒かった。
長机の向こうに、法官が五人。こちら側に、三人。局長ヴェルナー、執行官カイ、そして、新人執行官ノエル・オルグレン。
「起草者は」
中央の法官が、書類から目を上げずに、言った。
「そちらの、若い方ですか」
「はい」
ノエルが、立った。
法官たちの間に短い、しかしはっきりした沈黙が落ちた。誰かが、書類をめくる音を、必要以上に大きく立てた。
「勇者刑執行局・執行官、ノエル・オルグレンです。着任、一年目です」
「一年目」
「はい」
ノエルは、その沈黙を、そのまま受けた。逃げも、詫びもしなかった。
「一年で、執行に、三十一件立ち会いました。そのうち、十九件は、救えませんでした。……その十九件を、この案に、書きました」
*
「骨子を、述べよ」
ヴェルナーが、短く促した。局長は、椅子に深く座ったまま、腕を組んでいる。何も助け船を出さない。それが、この人のやり方だった。
「三点です」
ノエルは、紙束を、置いた。
「一点目。暴走の兆候がある元勇者に、執行ではなく、自制指導を行います。腹の底が熱くなってから、力が噴き出すまでには、間があります。その間に、何をすれば止まれるか。手順として、書き出しました」
「手順」法官の一人が、鼻で笑った。「感覚の話ではないのか」
「感覚です。だから、動作に、翻訳しました」ノエルは、頁を、示した。「左手を、体のどこかに固定する。視線を、地面に落とす。息を、吐き切ってから止める。……これは、実際に自分の意志で暴走を止めた執行官の、無意識の癖を、外から観察して書き出したものです」
法官たちの視線が、カイに、集まった。
カイは、天井を見ていた。この部屋は、寒い。
「二点目。指導期間中は、執行を、保留します。今の制度では、兆候が出た時点で、私たちは行けます。行けば、封じます。……封じたら、そこで終わりです。その人がもう一度、自分で立つ機会が、ありません」
「三点目は」
「指導を受けている間の、生活の保障です」
部屋の空気が、変わった。金の話になった途端に、変わるのが、分かった。
「暴走しかけた元勇者の多くは、力で食べています」ノエルは、続けた。「力を使わないでくれ、と言うのは、明日から食べるな、と言うのと同じです。……先月、辺境の村で、三年間ひとりで止まり続けた人が、折れました。彼が止まれなかったのは、止まったら、村を守る者がいなくなるからでした」
*
「オルグレン執行官」
列の端の法官が、初めて、口を開いた。
五十がらみの男だった。灰色の髪を、一本の乱れもなく撫でつけている。手元の書類には、書き込みが、一つも、なかった。読み終えている、ということだった。
「法制院次席法官、ハウゼル・クリーグです」
男は、名乗った。それから、ノエルの三点を、順に、指でなぞった。
「一点目。良い。手順は、条文にできます。二点目。良い。執行の保留は、期限を切れば、書けます。三点目」
指が、止まった。
「これは、書けません」
「なぜですか」
「予算の話だからです。私は法を書く者で、金庫番ではない」ハウゼルは、書類を揃えた。「ですが、それ以前の問題があります。オルグレン執行官。あなたの案には、いちばん大事なものが、抜けている」
「……何でしょう」
「誰を、指導するのか」
ノエルの唇が、開いたまま、止まった。
「暴走の兆候がある元勇者は、登録済みだけで、国内に千七百人います」ハウゼルは、淡々と、数を出した。「未登録を含めれば、三千は下らないでしょう。指導者は、何人いますか」
「……今は、一人です」
「一人」
「二人です」ノエルは、言い直した。「私も、やります」
「二人で、三千人を」
ハウゼルは、初めて、ノエルを、まっすぐ見た。目に、悪意はなかった。それが、なお、悪かった。
「制度というのは、限られた手を、どこへ配るかを決めるものです。誰から先に、誰は後回しか。……それを決めないものは、制度ではありません。願いです」
彼は、書類を、閉じた。
「私は、願いを条文にはできない。順序を、決めてもらいます」
*
「……つまり」
帰りの回廊で、ノエルは、まだ、震えていた。怒りか、寒さか、判別がつかなかった。
「私は、誰を後回しにするか、決めろって、言われたんですよね」
「そうだ」
「先輩は、平気なんですか」
「平気じゃない」
カイは、歩きながら、言った。
「だが、あの男の言ったことは、間違ってない」
「間違ってます!」
ノエルが、立ち止まった。声が、回廊に響いた。
「順序をつけたら、後ろの人は、順番が来る前に暴走します。ダリオさんは、後ろの方でした。だから間に合わなかったんです。制度を作るのは、順番をつけるためじゃなくて、順番をなくすためです!」
カイは、彼女を、見た。
「……お前、その台詞、あの部屋で言え」
「言えませんでした」
「次は、言え」
ノエルは、しばらく黙って、それから、はい、と言った。
*
草案が、局に戻ってきたのは、四日後だった。
ノエルは、封を切って、頁をめくり、途中で、手を止めた。
「先輩」
「どうした」
「……増えてます」
カイは、覗き込んだ。
ノエルが書いた三点は、そのまま、条文になっていた。文言は、彼女のものより、ずっと硬く、ずっと短い。だが、意味は、変わっていない。
その第四条として、彼女が書いていない条文が、一つ、増えていた。
『第四条 指導対象者の選定にあたっては、別に定める暴走適性審査の結果に基づき、順位を付するものとする』
「順序を決めないものは制度ではない、願いだ」というハウゼルの言い分に、私は反論を用意できませんでした。手が足りない以上、誰かが後回しになります。それを決めないまま始めれば、決めているのは制度ではなく、たまたま近くにいた人の運になる。彼は正しい。正しい人が正しい理屈で作ったものが、いちばん遠くまで壊れに行くことがあります。
次話、その審査が何を測っているのかを、シキが数式の裏から読みます。




