第35話:止まれ、と言えなかった
麦畑が、燃えていた。
群れは、三十を超えていた。これまでの、倍。巣が、崩れたらしい。土を割って出てくる鼠型の獣が、石垣を越え、家の壁を削っていた。
その中心に、ダリオが、立っていた。
剣が、光っていた。刃ではなく、腕が。白い紋様が、皮膚を破って、外へ噴きこぼれている。三ヶ月、閾値の下に張り付いていた曲線が、跳ねていた。
足元に、割れた瓶が、二本。
「ダリオ!」
カイが叫んだ時には、群れは、もう半分に減っていた。
ダリオは、強かった。Cランクの登録が、嘘に思えるほど。獣が、面白いように、裂けて飛んだ。
最後の一匹が転がったのは、それから、十を数える間もなかった。
村は、守られた。三十八回目も。
だが、ダリオは、剣を、下ろさなかった。
誰もいない麦畑に向かって、彼は、剣を振り下ろした。二度。三度。四度。
「……止まれ」
自分に、言っていた。あの日と、同じ声で。
「止まれ。止まれ、止まれ、止まれ」
止まらなかった。
紋様が、腕から肩へ、肩から首へ、走った。
ダリオが、ゆっくりと、村の方を、向いた。
「ダリオさん!」
ノエルが、走った。カイの手が、その襟をつかんで、引き戻した。
「離してください! 話せば――」
「聞こえてない」
「聞こえます! 三ヶ月、止まってた人ですよ!」
カイは、答えなかった。
答える代わりに、前へ、出た。
十歩の距離で、カイは、立ち止まった。
ダリオの目には、もう、村が見えていない。何が見えているのかも、分からない。だが、彼はまだ、村の方を向いたまま、動かずにいた。
止まろうとしている。
まだ、止まろうとしている。
「ダリオ」
カイは、言った。
「聞け。腹の底が、熱いだろう。耳が、遠いだろう」
ダリオの喉が、鳴った。
「息を、吐き切れ。吸うな。吐き切ってから――」
紋様が、走った。
ダリオの体が、地を蹴った。
*
封印鎖が、空気を裂いた。
一本目が、右腕を。二本目が、左の肩を。三本目が、噴き出した力そのものに、絡んだ。
カイは、引いた。全身で。踵が、焼けた麦の土を、抉った。
ダリオが、膝を、つく。
白い紋様が、鎖の下で、悲鳴のような音を立てて、縮んでいった。噴き出そうとする力を、鎖が、内側へ、押し戻していく。
やがて、静かになった。
村は、無事だった。誰も、死ななかった。
「ダリオ・ヴェント」
カイは、膝をついた。
宣告の言葉が、喉まで、来ていた。三十回以上、口にしてきた言葉だった。舌が覚えている。考えなくても、出る。
――勇者刑執行局の名において、あんたの力を、永久に。
出なかった。
鎖の下で、ダリオの目が、うっすらと、開いていた。正気が、一滴だけ、戻っていた。
彼は、カイを、見た。それから、少しだけ、口を動かした。
「……教わり、そこねた」
カイの手が、鎖の上で、止まった。
「すまん」
カイは、そう言った。
宣告の代わりに、それだけを、言った。
*
村の者は、誰も、責めなかった。
それが、いちばん、こたえた。
村長は、封印されたダリオの傍らに座って、しばらく、その顔を見ていた。そして、担架を運んできた男たちに、丁寧に、頭を下げた。孫の手を引いた女は、荷馬車が動き出すまで、通りに立っていた。子どもは、走って通らなかった。
「……あの人が」
村長が、言った。
「あの人が、いなくなったら、次は、誰が」
答えを、誰も、持っていなかった。
*
王都へ戻る荷台の上で、ノエルは、ずっと、紙束を握っていた。
三日間で書き溜めた、癖の記録だった。左手で三つ目の環を握る。視線を地面に落とす。息を吐き切ってから止める。
どれも、間に合わなかった。
「先輩」
「何だ」
「ダリオさんは、救えました。生きてます。……療養院で、目を覚まします」
「ああ」
「でも」ノエルの声が、割れた。「自分で、止まれませんでした。私たちが、止めました。……ぜんぶ、去年までと、同じです」
カイは、荷台の縁に、腕をかけていた。遠ざかる麦畑を、見ていた。
あの男は、三ヶ月、独りで止まり続けた。誰にも教わらずに。
そこへ、教えに行ったはずの自分が、間に合わなかった。
止めかたは、渡せなかった。
――そして、いつか、ほんとうの、止めかたを、みつけて。
見つけた気になっていただけだ、とカイは思った。あの夜、自分の中で完結したものは、他人の腕の中では、何の役にも立たなかった。
「先輩。……ひとつ、いいですか」
ノエルが、顔を上げた。目は、赤かった。だが、声は、もう、割れていなかった。
「私、三日間、間違えてました。先輩の癖を書き写せば渡せると思ってました。違いました」
「何が」
「ダリオさんが止まれなかったのは、止めかたを知らなかったからじゃありません。止まったら村が死ぬからです」ノエルは、紙束を、膝の上で、揃えた。「止まった人の代わりに、誰かが村を守る仕組みがなかったからです」
カイは、彼女を、見た。
「先輩ひとりが、馬車で三日かけて、辺境に教えに行くやり方だと。間に合う人と、間に合わない人が出ます。ダリオさんは、間に合わなかった方です」
「……何が言いたい」
「制度に、しましょう」
ノエルは、言った。
「先輩が見つけたものを、先輩ひとりの手から、外に出します。誰が行っても、同じ手順で、同じことができるように。止まった人の後を、誰かが引き受けられるように。……それなら、馬車で三日の村にも、届きます」
荷台が、揺れた。
カイは、しばらく黙っていた。それから、短く、言った。
「書類が、増えるぞ」
「望むところです」
ノエルは、笑った。目を、拭いもせずに。
「私、書類を胸に抱えるのが、いちばん得意なので」
*
局に戻ったカイを、受理係が、待っていた。
封書は、二通あった。
一通は、南の療養院から。ダリオ・ヴェント、搬送完了、経過良好。
もう一通の封蝋は、青かった。見たことのない意匠だった。天秤を、二本の羽根で挟んだ印。
差出人は、王国法制院。
中の一文を読んで、ノエルの指が、止まった。
『暴走危険者に対する自制指導制度の創設について、勇者刑執行局へ照会する。ついては、当該制度の実務案を起草しうる者の出席を求める』
その青い封蝋の下に、まだ誰も読んでいない条項が、一つ、紛れていた。




