第33話:教えかたを、知らない
ヴェルド村の朝は、鐘の代わりに、鶏で始まる。
草地に、四人が立っていた。カイと、ダリオと、紙束を抱えたノエルと、端末を三つ首から提げたシキ。
「あっ、えっと、位置は、そこで。ダリオさんの右腕から、二歩、離れて……いえ、あの、私が離れます。私が」
シキは、王都から出たがらない。出したのはノエルだった。数値がないと制度にならない、というのが理由で、シキは三日、抵抗した。
「シキちゃん、村の人が見てますよ」
「見ないでくださいって、言ってください……!」
石垣の上に、村の子どもが五人、並んで座っていた。全員、シキを見ていた。
「あ、あの、これは、測る機械で、面白いものでは」
「にいちゃん、それ光る?」
「光りま……光ります、けど」
「光らせて!」
「ひっ」
ダリオが、初めて、笑った。声を立てて。
カイは、その顔を、覚えておくことにした。この男が笑える顔をしているうちに、間に合わせなければならない。
*
「じゃあ、始めます」ノエルが、紙束を構えた。「一日目。ダリオさん、力が来る時って、どんな感じですか」
「……熱い」ダリオは、少し考えて、言った。「腹の底が、熱くなる。それから、耳が、遠くなる」
「先輩は」
「同じだ」
「よかった、共通項です」ノエルが書きつけた。「じゃあ、その次。熱くなってから、どうやって、止めますか」
ダリオが、カイを見た。カイが、口を開いた。
「……止まる、と」
「はい」
「止まると、決める」
沈黙が、落ちた。
「……それだけですか」ノエルが、言った。
「それだけだ」
「あの、先輩」ノエルの声が、少し高くなった。「それ、『泳ぎ方は、沈まないと決めることです』って言ってるのと、同じですよ」
カイは、答えなかった。答えられなかった。
*
その日、カイは、六度、説明を試みた。
六度とも、失敗した。
息を止めろ、と言えば、ダリオは息を止めた。何も変わらなかった。誰かの顔を思い出せ、と言えば、ダリオは村長の顔を思い出した。腕の紋様は、太くなった。
最後には、カイは、黙った。
自分でも、分かっていなかったのだ。あの検査場で、渦の底で、なぜ自分が止まれたのか。
――カイ……わたしを、ここで、止めて。
耳の奥で、掠れた声がした。十年、消えない声だった。
――そして、いつか、ほんとうの、止めかたを、みつけて。
見つけた、とあの夜は思った。だが今、それを人に手渡そうとすると、手の中には、何も、残っていなかった。
見つけたのではなく、たまたま、落ちなかっただけかもしれない。
「先輩」
ノエルが、隣に立っていた。
「言葉にできないなら、書きます」
「何を」
「動作を、全部です」ノエルは、紙束をめくった。びっしり、埋まっていた。「先輩、力が来た時、必ず左手で鎖の三つ目の環を握ってます。無意識です。あと、視線を必ず地面に落としてます。あと、息を吐き切ってから止めてます。吸ってからじゃなくて」
カイは、自分の左手を、見た。
知らなかった。
「言葉にできないものは、たぶん、先輩の中では手順じゃなくて、癖になってるんです」ノエルは言った。「なら、癖を、書き出せばいい。書き出せたら、渡せます。……渡せたら、それは、もう先輩ひとりのものじゃありません」
*
「三年前の話をしても、いいか」
夕方、ダリオが、そう言った。
草地に、四人で座っていた。シキの端末は、子どもに二度、奪われていた。
「群れが来た。二百は、いた。村の男は十二人だ。……俺は、封印されるつもりで、力を、全部出した」
ダリオは、自分の腕を、見た。白い線が、皮膚の下で、薄く脈打っている。
「群れは、退いた。誰も死ななかった。……で、その次の月に、また来た。その次の月も」
「毎月か」
「巣が近い。動かせない。動かす金も、人手もない」ダリオは、笑った。「三年で、三十七回だ。数えてる」
ノエルの手が、止まった。
「……ダリオさん。あの、それって」
「そう」ダリオは、頷いた。「俺が止まったら、村が死ぬ」
風が、麦を鳴らした。
「あんたら、俺に『止まれ』って言いに来たんだろ。俺だって止まりたい。三ヶ月、毎晩、止まりたいと思ってる。……でもな、執行官さん。俺が止まる日ってのは、この村が誰かに守られる日だ。それは、俺が決められることじゃ、ない」
カイは、何も、言わなかった。
この男は、止まりかたを知らないのではない。止まる場所が、ないのだ。
*
その夜。
カイは、眠らなかった。宿の窓から、ダリオの小屋の明かりを、見ていた。
明かりが、消えた。しばらくして、また、灯った。
カイは、外へ出た。
窓の隙間から、見えた。ダリオが、寝台の脇に膝をついて、床板を外している。中から、瓶を、一本。
震える手で、栓を、抜こうとしている。
抜けなかった。もう一度、試して、また、失敗した。三度目に、ダリオは瓶を床に置いて、両手で顔を覆った。
声は、しなかった。
カイは、窓の下に、立ち尽くしていた。踏み込む理由は、いくらでもあった。踏み込まなかった。
あの男は、まだ、止まっている。
――止めれば救えた、と、私は今も思っている。
ジルドの声が、なぜか、そこで蘇った。
カイは、初めて、その言葉の意味が、少し、分かった気がした。
止めるだけでは、救えない。
「手順書」という発想は、ノエルのものであってカイのものではありません。彼は自分の体で覚えたことを、体で覚えたまま持っています。それを外から見て、左手がどこを握っているかを数えられるのは、隣にいて、なおかつ本人ではない人間だけです。この作品でいちばん実務的な仕事を、いちばん熱い人がやっているのが気に入っています。
次話、辺境に薬を流していた男との決着です。




