第31話:震える手
王都から、馬車で三日。
ヴェルド村は、痩せた麦畑と、石垣の低い家が二十ばかり並ぶだけの、地図の端の村だった。
「ここです」ノエルが、荷台から降りて、執行書類の束を胸に抱え直した。「通報者は、村長さん。……ただ、通報の文面が、変なんですけど」
「読め」
「『暴走ではありません。ですが、いつか暴走します。だから、来ないでください』……です」
カイは、風の匂いを、嗅いだ。麦と、土と、そこに混じるべきでないものの、匂い。
村外れの草地で、一人の男が、剣を振っていた。
相手は、土を割って出てきた鼠型の魔物。Cランクの元勇者なら、一撃で片づく相手だった。
だが男は、二度、三度、四度と、剣を振り下ろしていた。とうに動かなくなった獣に、なおも。振り下ろすたび、腕の皮膚の下から、白い紋様が、細く、噴きこぼれた。
「……止まれ」男が、自分に、言っていた。「止まれ。止まれ、止まれ」
やがて剣が、手から落ちた。男は膝をつき、震える両手を、見つめていた。
カイは、その手から、目を離せなかった。
十年前、同じ手を、見た。あの日エルシャは、討伐の祝杯の席で、握った杯を割った。手が、震えていた。何でもないと、彼女は笑った。三日後に、街が焼けた。
*
「ダリオ・ヴェント」
カイは、名を呼んだ。頭の中の記録が、静かに開く。
「三十二。元Cランク認定勇者。三年前、この村が魔物の群れに襲われた時、たった一人で防いだ。以後、登録更新なし。療養院にも、来ていない」
「……やっと、来たか」
ダリオは、立ち上がりもせず、笑った。乾いた笑いだった。
「執行官が来る日を、三年、待ってた。……早くしてくれ。村の連中に、見えない所で頼む」
「執行に来たんじゃない」
ダリオの顔から、笑いが、落ちた。
「じゃあ、何しに」
「止まりかたを、教えに来た」
*
村長の家で出された麦の粥は、薄かった。それでも村長は、椀を三つ、迷わず並べた。
「ダリオさんがいなければ、この村は、三年前に消えとりました」
老人は、そう言った。言いながら、窓の外を、見た。ダリオが、井戸端に、一人で座っている。
「……ですが、うちの孫は、あの人の前を、走って通ります。怖いんです。あの人が村を守るたび、あの人の腕の、あの白い線が、太くなる。皆、分かっとるんです。いつか、あの線が、こっちを向くと」
救われながら、恐れている。ノエルの手が、書類の束の上で、止まった。
「……村長さん」ノエルが、言った。「その二つは、両立しないと、思ってらっしゃいますか」
「両立、しますか」
ノエルは、答えられなかった。
その夜、無線の向こうで、シキが、早口で数字を並べた。
「あっ、えっと、カイさん。ダリオさんの紋様、測ったんですけど……変です。すごく」
「言え」
「暴走の閾値って、越えたら数日で戻れなくなるんです。曲線が、跳ねるので。でもダリオさんの数値、閾値のすぐ下に、三ヶ月、張り付いてます。……跳ねてない。押さえてる。人力で」
カイは、井戸端の背中を、見た。
「三ヶ月、独りで、止まり続けてるってことか」
「はい。……その、データとしては、ありえないんですけど。ありえないことが、起きてます」
ありえないことを、あの男は、毎日やっている。誰にも教わらずに。誰にも見られずに。
そして、いつか、折れる。
*
その夜、ノエルは、宿の卓に紙を広げて、何も書かずに、座っていた。
「先輩」
「何だ」
「先輩は、止まれましたよね。あの検査場で。自分の意志で」
「……ああ」
「あれを」ノエルは、顔を上げた。「他の人にも、渡せますか」
カイは、すぐには答えなかった。
渡せるなら、エルシャは死ななかった。ハロルドも、リアムも、死ななかった。渡せなかったから、自分は封印鎖を握っている。
「分からん」
カイは、正直に、言った。
「だが、分からんで済ませたら、あいつは明日も、あそこで剣を振ってる。……三ヶ月押さえた男が折れるのを、俺は、待ってるだけになる」
ノエルの目が、光った。彼女は紙を引き寄せ、一行目を、書いた。
『一日目。ダリオ・ヴェント。止まれている理由を、聞くこと』
*
ダリオの小屋を検めたのは、翌朝だった。本人が、どうぞ、と言った。隠す物はない、と。
寝台と、砥石と、繕った上着。それだけの部屋の、棚の奥。
カイの指が、硝子に、触れた。
空き瓶が、六本。ラベルは、ない。
底に、小さな刻印があった。三本の剣を鎖が束ねた、あの意匠では、なかった。麦の穂を、丸で囲んだだけの、素朴な印。
「……シキ」カイは、無線に言った。「賦活剤だ。刻印が、違う」
『えっ。……あっ、ちょっと待ってください、成分、飛ばしてもらえますか。……あ、うわ』
「何だ」
『賦活剤です。間違いなく。でも、術式が、雑です。薄めて、薄めて、量を作ってる。……これ、高いものじゃありません。安いです。すごく』
ノエルが、瓶を一本、持ち上げた。光にかざす。底の麦の穂が、朝日に、透けた。
「こんな辺境に」ノエルが、言った。「誰が、こんなものを」
カイは、瓶を、置いた。
「売りに来た奴が、いる」
第3部が始まりました。お付き合いいただき、ありがとうございます。
この世界の元勇者は、力を失うか暴走するかの二択で、その中間に居場所がありません。等級の登録は義務ですが、登録したところで国がしてくれるのは「暴れたら執行官を送る」ことだけです。ダリオが三年も誰にも見つからなかったのは、隠れていたからではなく、見に行く仕組みが無かったからでした。
次話、その隙間に商売を持ち込んだ男が出てきます。彼はそれを「仕事」と呼びます。




